背後で扉が閉まる音を聞いて,エドガーは小さくためいきをついた。彼は,祭礼が無事に終われば,城下は祭りの喧噪に包まれることを知っている。フィガロの民が神からの祝福を讃える,祝いの祭りが始まるのだ。
 そして,柔らかに微笑み,侍従や周囲の警護にあたっていた者,支度をした女官達にねぎらいの言葉を掛けてから,自室へと引き上げたのだった。
 城の主に数分遅れて,城下から戻った王弟と国王の「賓客」たちは,それまでの緊張感から解放されて,祭りの気配が城内の空気に混じっているのを感じる。
「おや? 皆と一緒ではなかったのかい」
 部屋を訪ねれば,着替えもせずに窓辺に佇むエドガーの姿があった。
「あ,うん。皆は外出の支度をしてる。・・・今年も盛大だったな。やっぱり,・・・平和って,いいもんだな」
 マッシュが頬を上気させたまま,嬉しそうに呟く。
「ああ」
 そんな弟を愛おしげに眺めて,王冠の飾りを揺らしながら,兄は笑みを深めた。
「マッシュ,私のことはいいから,早くお行き。皆が待っているだろう?」
「そうする。ありがとう,セッツァーは?」
「ああ,俺はいい。行ってこい」 
 彼が軽く手を上げて答えると,マッシュは小さく頷いてからセッツァーに「頼む」と言い残して,エドガーの頬には挨拶を残して,慌しく部屋を出て行った。
「一昨日もね,セリスとティナとリルムが大はしゃぎで帰ってきたんだ。久しぶりにリープクーヘンを食べたよ」
 くすくすと愉快そうに笑うと,冠の飾りが揺れて,蝋燭の炎を受けて輝き,しゃらしゃらと軽やかな音をたてた。
「さて,着替えるとしようかな」
 卓上の鈴を鳴らして人を呼び着替えを手伝わせ普段着に戻ると彼らを下がらせて,エドガーは自分の手で固く纏めていた髪を解いた。
「貸せ」
 そう言ってセッツァーはエドガーの手から櫛を奪い取って,髪を梳く。そして,ゆるやかな所作で髪を梳き,指の間を流れ落ちる金糸の感触を楽しむような表情をする。
「なあ,ひとつ頼みがある」
 髪をゆるやかに纏めなおし,いつもの青いリボンで留めて櫛を置き,肩に手を置いて耳元でそっと囁く。
「改まって何だい?」
「出掛けたい。付き合え」
「えっ?! ちょ・・・」
 いきなり腕を掴まれて,椅子から体を引き上げるようにして立ち上がらせられて,エドガーは驚きの声を上げる。
「これを着て」
 着替えを手伝った侍従が既に用意をしておいたと思われる上着で,乱暴にエドガーの体を包む。
「じたばたするな。侍従長にも言ってあるから今日の夕食は用意されない。外へ出ないと食事もないぞ」
「いつの間に・・・」
「『フィガロが一番美しくて賑やかな季節だから来い』と言ったのは誰だ? そう言ったくせに,客を案内しないなんてことがあるか」
「それは,マッシュが・・・」
「知るか。来い」
 そう言われて強引に腕を引かれ,衛士の守る扉をくぐり城内の廊下に出ると,エドガーは抵抗するのを止めて,大人しく彼の腕を引く「賓客」に追従した。
「陛下,お気をつけて」
「陛下,どうぞ楽しんでいらしてください」
 侍従たちが使う通用口を抜ければ,城で働く者たちが口々にそう言って送り出してくれた。

 城から一番近くて,一番古くから市の立っていた広場へと,セッツァーはエドガーの手を引いて歩いた。
「もういいよ,手を離しても・・・」
「うるさい」
 広場へと続く道は,露店が軒を連ねている上にたくさんの人で溢れていて,人混みになれていないエドガーが,放っておくとはぐれてしまいそうで,彼は手を離すことができない。
「広場に出たら放してやる」
 振り向こうともせず,銀色の長い髪をなびかせて,彼はエドガーの前を歩いてゆく。
 エドガーは右手を引かれて,左手でコートのフードを抑えて,時折人にぶつかってしまい,その度に詫びて歩く。次第に歩きなれて,セッツァーの歩くペースにもあわせられて,周囲を見渡すと,家族連れが楽しそうに露店を覗く姿や,恋人同士,友人同士でグリューワインを片手に談笑する姿があり,彼らの顔は一様に笑っていることに気が付く。そして,だんだん,エドガーの表情も暖かさを増す。
 広場に出て,約束どおり手を放してもらって,歩む速度を緩めて,頭上に渡されたたくさんのカンテラで昼間のように明るく照らされた広場の中で,エドガーは立ち止まる。
「ねえ,セッツァー・・・」
「なんだ?」
 前を歩くセッツァーが,歩みを止めて振り返れば,エドガーは目を細めて,冷気にされされたせいかほんの少し紅色に頬を染めて話しかける。
「皆,楽しそう・・・」
 そう言って,エドガーは眩しそうに周りを見遣る。
「そうだな」
「こんなに寒いのに,なんだか暖かい」
「・・・そうだな」
 エドガーの瞳がほんの少し潤んで見える。
「待っていろ」
「え?」
 セッツァーはそういい残して,エドガーを広場の片隅に残して,雑踏に紛れたかと思ったら,少しして,両手に湯気の立つグリューワインを持って戻ってきた。
「ありがとう」
 カップを受け取って,エドガーは柔らかに笑う。
「昨日,セリスから聞いた。店によってずいぶん味が違うんだそうだな」
「そうだよ。特にね,グリューワインは店ごとに家ごとに味が違う」
 それからしばらく,広場の喧噪を眺めていると,どこからともなく楽器の音と歌う声が聞こえてきた。誰かがどこかで歌い始めたのが広がってきたのだろう。フィガロの,神と王と,その約束を讃える歌詞が,広場中に広がった。
----ひとりのみどりごが我らのために生まれた
    みどりごは神へと捧げられて,神は我らにお与えになった
    ひとりのみどりごが我らのために与えられた
    みどりごは神の仕業を讃えし者
    みどりごは神の御代となりて,我らを沃野へ導かん
    まつりごとはその肩にあり,我らと共に神を讃えん
    神よ,あなたの与えたみどりごは,
    調和をもたらす者,永遠の君と呼ばれるでありましょう----
 歌詞の終わりに誰かが上げた大きな声が重なる。
「フィガロ万歳! エドガー陛下万歳!」
 その声が響くと,広場中で歓声と拍手が上がって,遠くで爆竹のはぜる音が鳴るのが聞こえ,やがて,もとの広場の賑わいが戻っていった。その間,エドガーは,居心地の悪そうな表情のままじっと手の中のグリューワインのカップを見つめ続けて,顔を上げようとしなかった。
「なあ,いつもこんな風なのかい?」
 セッツァーは隣で歌を歌っていた家族連れの男性に話しかけた。
「そうさ! あの『世界崩壊』が起きる前も,今も,いつもこんなさフィガロの降神節は。・・・お客さん,旅の人かい? いいもんだろう,フィガロは」
 彼は上機嫌に語ってグリューワインのカップを乾杯の仕草で掲げて笑った。セッツァーは軽くそれに応えてから,傍らにたたずむエドガーを見る。今にも涙を零しそうなほどに目を潤ませて,広場の喧騒を見ていた。
「寒くないか?」
「うん・・・,大丈夫」
 エドガーは冷えた指先を暖めるように両手で器を持って,深呼吸した。
「なあ,昨日婆さんが作ってくれたのとも,微妙にスパイスの香りが違うな。それに昨日みたいに暖かい部屋で飲むのと,こうして寒い中で飲むのとではずいぶん違うもんだな」
「そう・・・」
 短く答えて,エドガーはグリューワインを口にする。
「マッシュがな,『世界が崩壊して,もう二度とこの祭りを見ることもないのか?って,思ったこともあったけど,また広場に灯りが灯って,グリューワインの香りがした時には,日常を取り戻したんだ,って実感した』って言っていたぞ」
「ああ・・・,マッシュは大喜びだった・・・。でも,ね」
 エドガーは,ほんの少し影の差した笑みを湛えて,否定の言葉を口にして,俯いてしまう。
「でも,何だ?」
 言うのを止めてしまったエドガーに,セッツァーは,続きを促す。
「・・・失ってしまった命に,どうやって償えばいいのか,私にはまだ答えが出ないのだけれど・・・」
 帝国に反旗を翻し,世界崩壊して,フィガロも少なからず痛手を負ったことに言及すると,エドガーの横顔から笑みは消えていた。代わりに,目深に被ったフードの影から,普段誰にも見せることのない,憂いを帯びた,年よりも幼くすら映る青年の顔を見せる。
「これが,答えだと,俺は思うがな・・・」
「え?」
「見ろ,広場で,みんなどうしてる? 子供も年寄りも,日が暮れていても広場に集まって来て。みんな,一様に笑顔でいるんだ。これが,答えじゃないのか?」
 そう言って,エドガーの掌から器を取り上げて,苦笑いを浮かべて,
「なあ,ヴルストも美味いって言ってたな?」
 と問いかける。
「ああ。むこうの屋台で焼いていたよ」
「ビールはあるのか?」
「この広場のどこかにはね」
 急に話を遮られて食べ物と酒の話しになり,エドガーの声にはほんの少し,非難めいた色が混じる。が,
「待っていろ,腹が空くと,ろくな事を考えないからな」
 セッツァーは,長い銀髪を無造作にかき上げて,「しょうがないなぁ」という庇護者のものに近い笑顔を浮かべて,エドガーの元を離れようとしたその時・・・,

 


 

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