「エドガーへいか!」
と。
突然,小さな子供が,エドガーの外套の裾に抱きついて来て,裾が揺れる。エドガーの白い外套に,気持ちよさそうにしがみついて,真っ直ぐに見上げてきた子供は,嬉しそうに声を上げた。
一瞬,セッツァーが身構えるが,エドガーは小さく首を振ってそれを制する。
「へいかだ。へいかでしょ? せいさいのごいしょうもきれいだった! すごくすごくきれいだった」
「ぼうや・・・」
「はなよめさんのように,きれいだった。へいかは,このくにのかみさまのはなよめなんだね」
興奮して,エドガーの足元に抱きついて離れない小さな男児は,目をきらきらさせて,一気に思いの丈を告白した。そして彼の「へいか」という言葉に大人達が次第に集まって,エドガーの周りに人垣ができあがってしまうまでに,大した時間を要しなかった。セッツァーは,エドガーの背を守るようにして,半歩下がって周囲に視線を遣る。
「こら,坊主! 知らない人に急に抱きついたりして,お客さんを驚かすんじゃない!」
大きな声の主は,グリューワインを売っていた露店の主だった。
「すみませんね,家の孫が,とんだご迷惑を・・・」
店の主は,エドガーの足元から小さな子供を後ろから抱きしめて,視線を上げ,正面のエドガーの顔に視点を定め・・・,
「・・・陛下?」
と,彼は子供の戯れと思って叱り飛ばしたそばから,自分の前に立っている青年の,柔和さにほんの少し複雑な色の混じった笑みに釘付けになる。周囲もそのただならぬ雰囲気にさらに幾重にも人の輪をつくってゆく。
逃げだそうにも人の輪は幾重にも彼らを取り囲み,隠し通すことが困難だと観念して,エドガーは頭を覆っていたコートのフードを脱いで,フィガロ王家の者である証にも等しい,長く伸ばした金色の髪を露わにする。
優雅で,緩やかな所作で露わにされた金の髪は,頭上から広場を照らすカンテラの明かりに照らされてまばゆく,まるで神の御使いが降臨したかのように輝く。
「元気なぼうやだね。歳はいくつ?」
エドガーは,子供の手を取る。
「いつつ!」
エドガーは片膝をついて,子供と目線を同じくして問うと,彼は片手を大きく開いて自分の歳を告げた。
「いい子だ。君は,私が好きかい?」
優しい笑顔で,子供に問えば,
「うん。だいすき」
素直に応える子供の声に,その表情から憂いの色が消えてゆく。
「ありがとう。きみに,神様の祝福を。ずっとずっと,みんなみんな,きみときみの家族とお友達が幸せであるように,私は祈っているよ」
「ありがと! じゃあ,へいか,ぼくははへいかのしあわせをずっとずっといのってるね。いつもはあえないけど,だいじなひとのために,まいにち,いのるね」
子供は,大きな声でそう宣言して屈託のない笑顔を浮かべる。上気した頬,楽しそうに響く声,エドガーに触れたくて伸ばす腕,それら全てが,神からの祝福が,子供の形をして現れたように,彼の瞳に映った。
エドガーは伸ばされた腕を取って,子供を抱きしめてから,抱き上げて,頬に口づけると,子供は囁くように歌い始める。暫く小さな歌声に耳を傾けていた彼は,耳元で囁くように歌われる歌を,共に口ずさむ。それは,フィガロの子供ならば皆が知っている聖歌で,いつの時代も親たちが子供達に教えて来た,フィガロの神を讃える歌だった。
--------しあわせなひと かみはともにあり われらともにかみをたたえん
幸せな人 神は共にあり 我ら共に神を讃えん
てんのいとたかきところにはかみにえいこう
天のいと高きところには神に栄光
そのみわざわあまねくてんちにみち
その御業はあまねく天地に満ち
そのめぐみはとこしえに
その恵みはとこしえに
われらはたびじのはてに かたちなきかみをみる
我らは旅路の果てに 形なき神を見る
われらはたびじのはてに かみのえいこうをともにたたえるともをえて
我らは旅路の果てに 神の栄光を共に讃える友を得て
われらはともにかみをたたえん
我らは共に神を讃えん
かみよ そのみわざはとこしえに
神よ その御業はとこしえに--------
「・・・へいか,しあわせな夜を」
「きみにも。おやすみ,よい夢を」
エドガーは抱き上げた子供と両の頬に口づけを交わして,一度まっすぐに瞳を覗き込むようにしてから,彼の祖父の腕に彼を返す。
「皆にも,よい降神節でありますように」
エドガーが人の輪にそう声を掛けると,
「よい聖夜を」
「おやすみなさいませ」
「また来年も」
「いつも共に」
人々は一人,また一人と,エドガーの前に進み出てその手をとり,膝を折って礼をして,心のこもった一言を残して広場の喧噪へと戻って,次第に広場はまた元のざわめきを取り戻していった。
「帰ろうか,夜はまだ早いけれど」
エドガーは,そっと背中を守るセッツァーに呟く。
「そうだな,だが,ヴルストとビールを調達するくらいしても,罰は当たらないとおもうがな」
セッツァーは,そっとエドガーの背中に掌を添えて,再び広場の雑踏に身を任せたのだった。気付かない者,気付いて笑顔を交わすもの,降神節の祝いを伝える者,様々な人々の中に,二人は自然に溶け込んでゆく。
「出てきてしまえばこんなもんだ。気のまわしすぎだったな,『陛下』」
熱く焼かれたヴルストを手渡されて,エドガーは苦笑いを浮かべる。
「目に見えないのは,神だけで充分だ」
セッツァーが言った一言に,エドガーは驚いて目を見開く。
「・・・昔,父が同じ事を言っていた・・・。私たち王家は,『神』ではない。神と契約を交わした砂漠の『民』だ,と」
父親の言葉と重ねられて,元空賊は,照れくさそうに視線を逸らして前髪をかきあげ,ぶっきらぼうに言い遣る。
「食え。冷める」
「ああ・・・ありがとう」
セッツァーは露店の店先に置かれたテーブルに買い求めたビールとフリッツを並べて,勧めてみせた。王は,聖祭の日は目覚めてから聖祭が終わるまでは水と聖祭で供される葡萄酒以外を口にしない掟があり,エドガーはこの日初めての食事を口にする。
「おいしい・・・」
ひとくち,口にして,エドガーは俯いて小さな声で言う。
「当たり前だ。朝から何も食ってないんだから。・・・それに,幸せなんだから」
彼は俯いたまま頭に被ったフードをさらに深く被って,表情を隠す。
「・・・泣くな,馬鹿」
そう言うと,小さく頷きが返された。
広場の喧噪を後にして,城へと戻る道すがら,エドガーは訪ねる。
「ねえ,セッツァー,飛空艇をどこに泊めてきた?」
エドガーは,顔を上げて天を仰いで,白い息が風に流されていく様を眺めてから,彼が来訪して以来一度も見ていない飛空艇のありかを,問う。
「離宮だ」
「頼みがあるのだけれど・・・」
エドガーが遠慮がちに,並んで歩む人の顔を覗き込みながら言うと,彼は,ほんの少し高い位置から笑みを返し,応える。
「なんなりと。わが友」
前夜,急に離宮へと誘われて,もう日付も変わろうかという時刻に床に就いたというのに,夜明け前に扉を叩く小さな音で,セッツァーは目を覚ました。
「入って良いかい?」
入室を求める声は,囁くように小さかったが,この離宮の主のものだと判る。
扉を開けると,普段着に厚手の上着を羽織った姿のエドガーがいた。
「ずいぶん早いご起床だな」
「見せたいものがあるんだ・・・」
そして,今朝はいつもより寒いから,暖かい格好で付いてくるようにと言う。
静けさが満ちた早朝の離宮の中は,しんとした空気が漂っていて,靴音すら吸い込まれていきそうな感じがした。ほの暗い廊下を歩いて行いて,階上へ上がる階段を登り,周囲を見渡せるバルコニーへと続く廊下へさしかかる。
「きっと驚くよ」
エドガーは足早に行く。その後ろ姿も,囁く声も,なにかとても嬉しそうに響いていた。
「ほら・・・」
扉の前に立って,子供のようにはしゃぐ声で,見よと促す。
扉を開け放つと,暁の空の下に,一面の白い大地が広がっていた。藍色の天空には小さな白い雲がぽつりと残されていて,まだ明るい星のいくつかは天に瞬いていた。大地はうっすらと雪化粧をして,早暁の空の色を吸って,大地にももう一つの空があって,自分達が中空に浮かび上がっているかのような錯覚を起こさせる。
まもなく陽が昇る。空は次第に藍色を薄めて,水色へと変化し,大地の雪の結晶が光を受けて煌めくまでに,そう時間はかからないだろう。
隣に立つ金色の髪の王が,大地を渡る冷気を帯びた風を受けて深呼吸をして,いとおしげに大地を見渡すのを眺めて,
「雪・・・」
セッツァーは,開け放たれた扉から忍び込む冷気の心地の良さに,目を細めて呟く。
「昨日ね,たぶん,今日は降るって思った」
エドガーは,賓客に,真っ直ぐな瞳で,胸を張って,ほんの少しだけ誇らしげに笑って,
「・・・『砂漠の国』フィガロで,雨や雪は神からの祝福なんだ」
言葉を紡ぐ。
「そうか・・・。そうだな」
「もうすぐ陽が昇るよ。この景色を,空から見せて欲しいと願うのは,わがままかな?」
眩しい光が朝の到来を告げ知らせる----。