盤上に三十二の駒を並べていく。最後に白のキングを置いて、エドガーはさてと顔を上げた。
「誰からやるんだ?」
 マッシュが雪辱戦だと言ってセッツァーを指名した。この勝負はあっさりとセッツァーが勝利した。
 次に、ロックとエドガーが対座する。
「ポーンなしでやってやろうか?」
「いらねえよ、ハンデなんか」
 ロックが白のポーンを手に取った。
 定石通りの展開が暫く続いた。
「兄貴とロック、前にもやったことあるんだ。チェス」
 盤面を見つめていたマッシュが、エドガーの手が止まった所を見計らって口を挟む。エドガーが盤上を見据えたまま答えないので、ロックは代わりに頷いた。
「んー。城に遊びに行った時に、な。時々」
「で? どっちが強い」
「……ポーン落ちでも時々負ける」
 散々悩んだ末に、エドガーが黒のクィーンを前に進めた。
 仕掛けたのはロックの方からだった。エドガーは焦ることなくそれを回避した。受け手は的確でミスもなく、次第に今度はロックが追い込まれる形成になった。
 暫くして。
 ロックがキングを後退させた。エドガーは、白のキングとクィーンの前に己のルークを突きつける。
「チェック」
 静かな声でエドガーが言った。ロックは改めて盤上に目を落とす。そして小さく息を吐いた。
「後六手で私の勝ちだ」
「やっぱハンデ貰っときゃよかった」
 呟くと、ロックは大きく伸びをする。今まで黙りを決め込んでいたセッツァーの方を向いて、にやりと笑った。
「セッツァー。お前、エドガーに勝てる?」
 セッツァーはただ意味ありげに笑うのみで、答えなかった。
 ロックが席を立ち、入れ替わりにセッツァーがそこに腰を下ろす。エドガーはそれを見て駒を並べ直し始めた。セッツァーは銜えていた煙草を灰皿に押しつけ、白と黒の駒が元の位置に着くのを待った。
 やがて規則正しく整列した駒を一瞥すると、エドガーはセッツァー見遣る。
「始めようか」
 セッツァーが先手を取る。初めからセッツァーは挑発的な駒運びでエドガーを煽った。セッツァーらしい、とエドガーは心の中で微笑んだ。
 傍観していたロックが、楽しくて堪らない、といった様子で身を乗り出す。
「俺、セッツァーが勝つ方に賭けるな」
 マッシュも続く。
「じゃあ俺、兄貴が勝つ方」
 二人の取り交わしにエドガーが眉を顰めたが、効果はなかった。側で勝手に盛り上がっている二人を、エドガーは取り敢えず黙殺した。エドガーはナイトでポーンを取る。セッツァーが攻撃を仕掛けてきた。局面は俄に荒れた。
「お前は、どちらに賭ける」
 ポーンを片手にセッツァーが問うた。
「……君は?」
「俺が勝つさ。で、お前は?」
 次の手は容易に予測が付いた。
「そうだなあ……。まあ、負ける気はないな」
 攻撃を完全に回避してしまうと、駒の動きは又緩やかなものになる。暫くお互いを探り合うように、無難な手を打ち続けた。
 稀に野次馬二人が、セッツァーやエドガーの手に批評をしていたが、あまりに当たり障りない手が続いたため、それもなくなった。
 テーブルの隅には空になった酒瓶が幾本も並ぶ。無闇やたらに減っていく酒の量が、局面の混迷の度合いを表している。
 つまらなそうに眺めていたロックが口を開いた。
「キングってさ、何でクィーンよか弱いんだろうな。キングがクィーンより強かったら面白いのに」
「へえ?」
 長考に入っていたエドガ−は、ロックの突拍子もない台詞に驚いて顔を上げる。
「でも、弱い駒ではないだろう。少なくともポーンやナイトよりは強いだろう。局面によるけど」
「だけどさ。キングなのに、クィーンの方が強いって何かなあ」
 マッシュが続いた。
「ポーンだってクィーンに成れるのに、なあ」
 悩んだ末に、エドガーはキングを一旦下げる。それを、すぐにセッツァーのナイトが追い掛ける。エドガ−の手が又止まった。
「でも、幾ら強くても」
 独りごちて、エドガーはセッツァーを正視した。そこにセッツァーの出方を窺う意図は欠片もなく、セッツァーもポーカーフェイスを崩さない。
「結局、キングが詰まれれば負けだしね」
 エドガーは盤上に残っている己の駒に目を落とす。
 白のビショップが前に出た。
 エドガーは黒のクィーンを手に取った。少しの間逡巡して駒を動かす。
 セッツァーが黒のクィーンをルークで取った。エドガーの読みの通りだった。
「……例えクィーンを捨てても。最終的にキングを潰せば勝ちになる」
 セッツァーが舌打ちした。
「……乗せやがったな」
 セッツァーが放った苦々しげな言葉を、エドガーは平然と受け止める。ゆっくりと盤上全体を俯瞰した後、微笑んだ。
「さすが、強いなセッツァー。ずっと押されっぱなしだったよ」
 本心からの言葉だった。エドガーは終始守りに徹していたし、己から局面を動かすことは殆どなかった。何度かあった筈の好機も見逃して。
 エドガーは己のキングの周りを取り囲む、白のクィーンとルークを眺めた。どの駒も、これ以上は動かせない。
 ステイルメイト。引き分けだ。
「マッシュ、ロック。私の勝ちだよ」
 口を噤んだまま盤上から目を離さない二人に向かってエドガーは悠然と言い放つ。
「私は、私が負けない方に賭けたんだから」

 寝転がっていると、突然ノックもなしにドアが開いた。
 エドガーは驚きも、又ベッドの上で身じろぎもせず、顔だけを承諾もなしに部屋に進入してきた男に向けた。
「泊めろよ」
「宿代は?」
 セッツァーはブランデーの瓶をテーブルの上に置いた。
 一目で上物とわかるそれに、エドガーは目を細めた。丁度酔いも醒めかけていた所だ。
「不足か?」
「まさか」
 エドガーは言った。半身を起こしベッドに腰掛けると、揶揄するように笑う。
「それに。ここは君の艇だろうに。そもそも遠慮する必要がないだろう」
 セッツァーが大いに渋い顔をしたので、エドガーは益々満足する。
 飴色に輝く液体が、セッツァーが一緒に持ってきたグラスに注がれた。差し出されたグラスを手に取ると、エドガーは手首を軽く持ち上げる。
「乾杯」
 グラスとグラスを軽く触れさせると、小さく堅い音がして、中の液体がとぷりと揺れた。
 嘗めるようにしてそれを味わうと、自然と口元が綻んでいく。
 先刻の、セッツァーとのチェスを思い出す。
 後手後手に回り、相手の出方を見てから動くのが己の遣り方だ。どこまで先が読めたとしても、己の方から仕掛けるのは趣味じゃない。相手の綻びが見つかるまで、或いは相手が読みを外すまでは、ひたすら逃げてやろう。勝てないまでも、大人しく負けてやるつもりなどない。エドガーは思う。
 弱い駒にも弱い駒なりの動き方がある。
 打ち崩せるなら崩してみるがいい。それで負けたのなら、素直に首を差し出してやる。
 成る程、己を賭けたゲームはかくも楽しいものか。以前彼が似た台詞を吐いたときには、ただの酔狂としか思えなかったが。
「どうした」
 急に声に出して笑い始めたエドガーを訝しげに見てセッツァーが問う。エドガーは殊更可笑しくなって笑う。
 笑っていると、濡れた唇が首筋に押しつけられる。抱き込まれ、そのままベッドに倒れ込んだ。
「機嫌がいいな」
 吹き込まれた言葉は酷く耳触りがいい。
「そうだな。……悪くはないかな」
 小さく囁いた言葉は、途中から激しくなる呼吸に掻き消され、果たしてセッツァーまで届いたかどうかはエドガー自身も解らない。
 

End

 


 

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