『その言葉が聞きたくて』

  


 

「大丈夫、―――私は大丈夫」
 そんな言葉を繰り返しつぶやいて浅い眠りに身を任せたのは、そう遠い過去ではない。
砂嵐の夜に、雷鳴の轟く夜に、たった独りで広い寝室の大きな寝台で休むことは、泣き出したいほど寂しかった。王族の寝室に入ることが許されている者はごく僅かにいたが、添い寝など許されるわけもなく、幾度となくたった独りで夜明けを待ったことか、数えたこともない。
 心の中で繰り返し叫び玉座に在ったことも、そう珍しいことではない。綱渡りのような感覚すら覚える政略にも、逃げられるなら逃げてしまいたくなるような戦況にも、もう慣れた。だから、「大丈夫」と、自分を騙しながら、いつのまにか騙され続けた私には、他人からそう問われてかけられる労わりの言葉など必要のないものだと思っていた。
 誰かに言って欲しかった言葉。だのに誰も言ってくれなかった言葉。
 正確に言うなら、二度だけ、聞いたことがある。
 一度はレネから。もう一度は父王から。
 でも、それは、彼ら自身のために囁かれた言葉だったと思っている。
「ロニは大丈夫」
 彼が出奔するほんの少し前のことだ。病床の王に代わって政務を執る私に、彼は言った。
そう、穿った見方をすれば、私が「大丈夫」ならば、彼が、レネが王位に就く必要はないのだから。
「お前ならば大丈夫」
 病床に在った父が、職務を代行する私に言った言葉だ。
 それは、自分が安心するために呟かれた言葉に思えてならなかった。自分自身に言い聞かせるように囁かれた声が、今も耳から離れない。私が王位に就けば、レネは自由を手に入れることができる。父が弟に王位を継がせたかったのか、それとも王位という軛から自由に生きることを選択させたかったのか、故人に確かめる術はない。
 が、「彼は」私たち双子と、継承権を持つ父の妹―私たちの叔母―とのうちの誰を王位継承者とするかを定めぬまま、この世を去った。それこそが、彼の迷いを如実に物語っているとしか思えない。
 フィガロの王家に連なる者は、始祖が犯した神への造反という罪を背負って生まれてくる。自分に造反の意思があろうとなかろうと、罪を犯した存在なのだ。王はその罪を雪がなければ、王位に就く―――即ち、神からの祝福を受けることはできない。
王の権能は神からの祝福である。神は、神への造反という王の罪を赦して、王に祝福を与えた。先代の王が後継者を定めれば、神は継続して王の後継者を祝福する。しかし、先代の王が後継者を定めずに崩御してしまった場合、新たな王は、先祖の造反の罪に塗れたままなのである。だから、王は再び赦される必要がある・・・、そう説明された。
 王位継承順位が定められぬままの継承候補者が王位を継ぐために経る儀式は、一言でいうならば「過酷」だ。それは、連綿と続く王家と神殿と神宮との常に均衡を取り合おうと三角に働く力の関係の中で、神殿が優位を得ようと画策した意図すら伺えたが、当時の私にそれを排除する力など無かった。
「私は大丈夫。私は、・・・王になる」
 以前私たちの乳母を務めて、今は神官長という職に在る人に儀式の合間に囁けば、彼女の瞳に憐れみとも、悲しみともつかぬ色が過ぎったことを思い出すことができる。
 思えば、そうして寄せてくれた憐れみの情も、断片的な記憶しか保てぬほどに痛烈だった儀式の中では何の力にも成り得なかったけれど、他人に言った「言葉」は、何よりも私自身にその「約束」を果たせと命じるくらいの力を与えた。

 ―――だのに。
「何が『大丈夫』だ、この馬鹿が・・・」
 彼は事も無げに、そう言ってのけた。
 出自も育った環境も、いま在る立場も、何もかもが相容れないはずの彼に否定される筋合いは無い、と強い反発を覚えた。
 が、自分でも判らないが、彼の行動と説得に抗うことは叶わず、唯々諾々と彼の主張に巻き込まれて、気が付けば、私は、過去の「傷」も、「軛」も、彼の前に晒すという不覚をとっていた。

 飛空艇を停泊させるために十分な広さの平地と、停泊している飛空艇を隠すのに十分な木立がある場所は、そう簡単に見つからない。が、ここ数日逗留している土地は、十分な条件を備えていた。穏やかな起伏の平原と、すぐ至近に森と、森に入って数分ほどの小さな滝のある小川を渡って、その先に水源地があった。野営において一番の懸案となる水の確保が容易で、この土地にいる時はよくそこを野営地にしていたのだった。森に入れば魔物とまみえる可能性もあるから、用心のために複数の人数で水を調達しに
いく必要があったけれど、水源の泉の水は常に透明で澱みなく、ここに逗留してから一日に一、二回、水を汲みに出掛けていた。そして、この時、過去にその道すがら一度も魔物に遭遇したことはなかったから、私自身も油断していたのは確かだった。水を汲んで戻る途中、川を渡って直ぐだった。私たちは魔物に遭遇してしまったのだった。数日前に降った雨で水かさの増えた川原はぬかるんでいて、右手は直ぐに滝になっていて地形も悪く、さらに水を入れた皮袋を持っていたことも手伝って、機微に動けなかった。
 やっとの思いで魔物を屠って、未だ肩で息をしていた私に、彼は吐き捨てるようにそう言って、自身の汗と魔物の毒を含んだ体液と泥とに汚れた衣服ごと、私を水面に放り投げたのだった。
 魔物の毒を含んだ体液は、皮膚に付着したまま放置すれば、強い炎症を起したり、麻痺や痙攣といった症状を呈することもあり、私がそのまま野営地へ戻ることはできない選択だった。しかし、いきなり川に、滝壷に突き落とすというのはあまりに乱暴なやり方だと抗議の言葉のひとつでも言ってやろうかと思ったが、落とされた水の冷たさに呼吸が苦しくて、叶わなかった。
 そして、以前に―――それはこの旅が始まるよりずっと以前だが―――魔物の毒のせいで高熱を出したことがある私は、正直うろたえた。
 でも、ティナを庇っての結果に、彼女を心配させるわけにもいかず、飲み込んでしまった水に咳き込みながら「私は、大丈夫」と呟けば、語尾に滲んだ狼狽振りを、空賊は看過してはくれなかった。
「よくもその面で『大丈夫』って言葉を周りに信じさせることができたもんだ。こんな程度の嘘しかつけない奴の仕掛けたイカサマに騙された自分が情けなくなる」
 滝壷を見下ろす岩の上から、彼の声が降ってくる。彼に、自分の頭上から声を掛けられるということに、無性に腹が立った。
「すぐに着替えを持ってきてやる。少し頭を冷やしやがれ」
 乱暴に言い捨てて、彼が踵を返そうとしたところ、ティナが声を上げる。
「セッツァー、私が行って来るから・・・。エドガーに助けてもらったのは私だし・・・」
「では、拙者もティナ殿と野営地へ戻って、代えの水筒を持って戻ってくることに致す」
 油断していたことも事実だったが、不覚にも魔物の不意打ちをくらい、途中で破損してしまった過去に水筒だった皮袋を眺めて、カイエンはため息をついたのだった。
「ならば、ティナもカイエンも疲れただろうから、そのまま皆のところで休んでろ。体力の有り余ってるマッシュあたりを差し向けてくれればいいから。気をつけて戻れよ」
「承知したでござる」
 そうして二人は、もと来た道を引き返して行った。常に彼の言い様は、他の仲間に対するそれと、私に対するそれにはずいぶんと温度差があった。はっきり言ってしまえば、彼が私に掛けるその声には、冷淡さを含ませていることが多い。
 ずぶ濡れになって、川の浅瀬に立てば、相変わらず川原の岩の上から彼は私を見下ろしていた。
「よく流しておけ。たしか、あの種類の魔物の毒は水で流せば大事はない」
 口調は冷たいが、かけられた言葉はそうではなく、どちらが彼の真意なのか常に測りかねる。彼のやり様に腹を立てていたが、彼がしたことは間違いではないから溜飲が下がるような感覚がなくも、ない。また、人を見上げるなどということを滅多にしたことのない「私」が、岩の上に立つ彼を見上げるという状況に、腹も立ったけれど奇妙な面白さを感じていたことも事実だった。
 そして、腹を立てたことも、彼に感心したことも、何事も無かったかのように声を掛けた。それは、私の得意とするところで、完璧に演じている自信があった。正直なところ、頭上から降ってくる水は冷たくて、一刻も早く水から上がりたかったから、いちいちいろいろなことに忖度していたくなかった。
「すまないが・・・こちらを見ないでくれないか?」
 そう、私は、弟に対しても肌を晒したことがない。当然、仲間にも、だ。
 皆は、それが私の立場ゆえの事だと思っているらしく、その誤解は便利だったので、解こうとも思わなかった。
 けれど、本当は、胸元を開けば、即位の時受けた「罪のしるし」が、嫌が応にも目に入る。それは今でもフィガロにおいて殺人や国家への不法行為など重大な罪に対して実際に行われている刑罰なのだが、その印が、私にもある。神への造反の罪を背負って生まれてきた印として。
十代の半ばに熱によって焼かれた皮膚は、引き攣れて今でもはっきりと痕跡を残している。
「王族ってのは下賎の者には裸も見せられないっていうのか? ふん。大したお血筋なんだな」
 それでも、嫌味を言いながらも彼が背を向けてくれたから、私は安堵した。纏めていた髪を解き、防具を外し、上着を脱いで、近くの岩に投げる。そして、流れ落ちてくる冷水を頭から浴びて、肌着の襟元を寛げれば、わずかな隙間から衣服と肌の間にも水は流れて、不快感をもたらす粘液と泥とを洗い流していった。掌で擦ると、皮膚にはほんの少しの違和感が残って、視線をやれば、腕にできた幾筋かの擦過傷が赤く爛れていて、思いのほか魔物の毒が強かったことが推測できた。
「あ・・・」
 思わず上げてしまった小さな声を聞きつけて、彼が振り返ろうとしたのが視界の隅に見えて、慌てて背を向ける。彼はそれが気に入らなかったのか、突然、
「怪我をしたのか?」
 と、声がしたかと思った直後、直ぐ背後で水しぶきが上がった。
「ちっ」
 小さく舌打ちをする音がしたかと思ったら、私を水面に突き落とした時と同様の強引さで、擦り傷を負った左腕を掴み、背を向け続けることを許さなかった。
 すれば、寛げたままの胸元をせめてその視線から隠そうと右手で襟元を押さえたけれど、彼はその行為が怪我を隠すものと思ったのか、払いのけて無理やりに開いたのだった。そして、晒された引き攣れた皮膚を見ることが叶ったのか、彼の動きが止まった。
「―――すまん」
 人為的に作られたとしか思えない傷痕に、彼が何を思ったのか、そして、どんな表情をしていたのか、私は知らない。が、彼が戸惑いを隠すことなく謝罪の言葉を口にしたのは確かだったと思う。
「・・・黙っていて欲しい・・・。マッシュにも・・・」
「判った」
 強い力で掴んだ腕と襟元とを、あっさりと彼は解放してくれた。
「―――判ったから、『大丈夫だ』なんて、言うな」
 それは、思いがけない言葉だった。

 


 

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