─ Moonpeta ─

どうしたって広いとは言えないその宿屋の客室が、暗闇と沈黙に支配されて長らくが経った頃、アーサーとローザが深く寝入ったのを確かめてから、そっと寝台を抜け出したアレンは、静かに着替え、マントも引っ掛け、息を殺して部屋を出た。

部屋ばかりでなく宿自体からも忍び出て、人気が途絶えた深夜のムーンペタを、彼は、一人彷徨い始める。

向かう先の当てはなく、唯、ふらふらと幾つもの通りを彷徨い続けた彼が辿り着いたのは、真実を映すラーの鏡の力でローザに掛けられた呪いを解いた、あの、町外れの雑木林裏の空き地だった。

真夜中に近い所為だろう、雑木林は鬱蒼として不気味な深い森に見えて、空き地は魔物か何かが潜んでいるように思えて、でも、アレンは、闇と闇を謳歌するモノ達が支配している如くなその一画の隅の、太い樹の根元に踞り、頭からマントを被り直す。

そうして、抱えた両膝に顔を埋めた。

────何かを怖いと思うのを、恐怖を感じていると誰かに告白するのを、アレンは決して恥とは思わない。

何一つも恐れぬ者は、それ故に、却って命を落とすと知っているから。

だが、どんな形を取っているかも見えぬ正体も判らぬモノに、凍える程の恐怖を覚えるのは、彼とて嫌だった。

…………恐怖、と言うのは、様々な意味で質が悪い。

特に、目に見えず、手にも取れぬ何かが与えてくる恐怖は、そのこと自体が更なる恐怖を生むと言う、嫌な質の悪さを持っていて、大抵の場合、大抵の者が持て余してしまう感情の一つだ。

それでも何とかしたいなら、忘れてしまうのが最も手っ取り早いのだろうけれど、もう、彼には、忘れた振りをすることも出来なかった。

気にせずにいられず、眠る気にもなれなかった。

だから、真夜中の雑木林裏の空き地の隅に、その夜の己の居場所を求めたアレンは、きつく目を瞑った。

忘却も、無視も叶わぬなら、せめて、何をどう怖いと感じているのかくらいは悟りたく、閉ざした瞼の裏側で、彼は一人考え込む。

………………恐怖を感じたのは、ローレシア王城のテラスにて、アーサーとローザがあのやり取りをしていた刹那。

二人が語らっていたのは、勇者ロトのこと、彼が後世に残したのだろう精霊にまつわる品々のこと、それに、品々を納めた、又は隠した場所のこと。

……そんな話の、一体何が、怖いと言うのだろう。

怖いことなど一つもない。

勇者ロトが、精霊の品々が、訪ね歩いた場所場所が、怖い……、だなど有り得ない。

でも、怖い。確かに、何かが。

「もしか……して、僕は、勇者ロトが、後の世の為にと残したのかも知れない品々を求め歩くのが、怖いのか…………?」

『人の領域』から掛け離れた闇の中に身を沈めて、視界も闇に閉ざして、己が感ずる恐怖の源を探し続けたアレンは、やがて、ぽつりと独り言つ。

「……まさか。僕達は、僕達の旅に必要な品を求めているだけなのに、それが怖いだなんてこと、ある訳が無い」

が、その時思い付いた『それ』は、馬鹿げているとしか感じられず、彼は今度は溜息を零した。

もしも、『そこ』こそを怖いと思っているならば、それは、ハーゴンの許に辿り着ける日が近付いて来たのが怖い、と思っていると相成り、自分は心の何処かでハーゴンを恐れている、と言うことにもなるが、どれだけ思い返してみても、そんな心当たりは無かった。

今尚、ハーゴンは、『夢のように遠い存在』に思えてならぬけれど、決して、怖くなどない。

勝てるかどうか、とも思うけれど、恐怖には繋がらない。

「ああ、もう……。自分で自分が判らない……。………………っ……、痛……。痛い……っ」

────と、深く思い悩んだ彼を、重く鈍い痛みが襲って、アレンは腹を抱えて背を丸めた。

ツキツキとする痛みは直ぐさま腹全体に広がって、マントで包んだ身をその場に横たえ、

「痛、た……っっ……。困ったな……。悩み過ぎた……かな…………っ」

僕は馬鹿かも知れない……、と自分で自分に嫌気を感じながら、彼は、痛みに耐えた。

樹の根元で身を丸め、痛みに唸っていた内に、アレンは眠ってしまった。

────そして、夢を見た。

六度目の。思い出した頃に見る、あの夢を。

夢の中でも、痛くて、寒くて、怖くて、辛くて、己で己を抱えて踞るしか出来ないでいたら、誰かが優しく抱き締めてくれた。

別の誰かは、頭を撫でながら背を摩ってくれた。

抱き締めてくれた腕も、撫で、摩りとしてくれた腕も、慈愛以外に例えようのないそれで、心からの安堵を覚え、大きく息を吐いた途端、両の瞳から涙が溢れた。

聞き覚えのあるような、されど心当たりの無い、何時もの『声達』の持ち主なのだろう誰かと誰かの前で、小さな子供みたいに泣くなんて……、と恥じ入り、どんなに堪えようとしてみても、涙は止まらなかった。

何者かも判らぬ誰か達なのに……、と悔しくも思ったけれど、どうしても。

『御免』

……恥ずかしくて、悔しくて、歯噛みしても、足掻いても泣き止めず、とうとう嗚咽さえ洩らしたら、誰かの一人が、そう言った。

『許しておくれ』

別の誰かも言った。

何時に夢を見ても、何度見ても、正体不明な『声達』は、己が名を呼ぶ時だけ鮮明で、その他は何を言われているのか一つも判らなかったのに、初めて、己が名以外に、意味ある言葉が聞けた。

「え…………?」

────だから、アレンは伏せていた面を跳ね上げた。

御免、と、許しておくれ、と、そう言った誰かと誰かの声音は、自身の声音に能く似ていたのだ、と気付いた途端、誰かと誰かの正体に、唐突に思い当たった。

「……まさか…………、ロト様……? 曾お祖父様…………?」

優しく抱き締めながら詫びてきた人も、頭を撫で、背を摩りとしながら詫びてきた人も、今の己へ血を伝えてくれた伝説の勇者達なのかも知れないと、咄嗟に呼び掛けたアレンは、眼差しを彷徨わせて二人の姿を探したが。

そこには、誰もいなかった。伝説の二人の勇者の姿は無かった。

彼の目に映ったのは、何も無い、真っ白な世界だった。

「ロト様! 曾お祖父様!」

確かに己が傍らにいてくれた筈の二人は、何処へ掻き消えてしまったのだろうと、叫びながらアレンは跳び起きた。

「あ……。……そうだ、夢だった…………」

慌てて体を起こしつつ瞬きをしたら、昇り始めた朝日の、薄紫色の中に浮かび上がる雑木林と、朝露を輝かせ始めた空き地の雑草が目に飛び込んできて、彼は、自身が知らぬ間に眠ってしまっていたのと、何時もの夢を見ていたのに気付く。

「何で、あんな夢……。それも、ロト様と曾お祖父様が…………。……ん? でも、あれは確かに何時もの夢だったから、もしかして、僕は何時も、夢の中で、ロト様と曾お祖父様を探すか頼るかしようとしていた、ってこと……か…………?」

毎度毎度の夢を……、と悟った途端、ひょっとして自分は、夢の中でとは言え、無意識に伝説の二人の勇者に縋っていたのかも知れない、と思えてきて、「うわ……」と赤面したアレンは、自分で自分を誤魔化そうと、寝起き故にか霞む両目を荒っぽく擦った。

そうしてみれば、革手袋の所々が何かに濡れて色を変え、

「……本当に、泣いたのか…………。恥ずかし過ぎる………………」

夢の中だけなく、現実にも泣いていたのだ、と思い知った彼は、頬を一層赤く染め、そそくさと立ち上がり、マントを羽織り直して宿へと戻った。