「何だ?」

「さあ……」

「催しでもあるのではなくて?」

三人の足を止めさせた人集りは、皆、揃って一方を向いており、何があるんだろう? と彼等もそちらへ顔を向けた。

すれば、直後、それまで騒がしかった人々が一斉に黙り込んで、静寂が訪れた後には、女性の歌声が響いた。

「……歌?」

「アンナだよ。歌姫のアンナ」

高く澄む歌声を掻き消さぬよう、小声でアレンが呟けば、彼の直ぐ傍にいた赤ら顔の男が、さも、余所者だな、と言わんばかりの顔しつつも、そっと、同じく小声で教えてくれた。

「ここは、人家や商家を拵えるので精一杯だった地下の街だからな。楽しみってのが少ないんだ。その数少ない楽しみの一つが、アンナがああして街角で歌ってくれる歌なんだよ。……良い声してるだろう? 良い歌だしな」

「…………ああ。確かに」

ボソボソと、囁き声で男が語った話はそんな風で、アレンも、彼と一緒になって歌にも話にも耳傾けていたアーサーもローザも、こくりと小さく頷く。

「おい! うるせぇぞ!!」

「そうよ、聴こえないじゃない!」

余りの人垣の所為で、背の高いアレンでも、彼等が立ち止まった所からは歌姫の姿は能く見えなかったが、響き続ける歌も歌声も、うっとりとした口調で赤ら顔した男が語った通り、静かに聴き入るに相応しいそれで、彼等は小声の会話を終えて以降口を噤んだのに、周囲から罵声が飛んだ。

「あ、御免なさい」

「……いや、俺や兄さん達のことじゃないな。何か遭ったみたいだぜ」

幾人もから上がった苦情を、己達へのそれだと思ったアーサーはペコリと頭を下げ掛けたけれど、どうもそうではないらしく、

「だから、何だってんだよ! 何の騒ぎだよ!」

「アンナの歌の最中だぞ!」

「それ処じゃねえって! ラゴスが牢から消えちまったんだと!!」

「え、あの盗人が? どうやって!?」

路上に集った人々が上げる罵声の数は増え続け、やがて街の者達は、「ラゴスが牢から消えた」と騒ぎ立て始め、辺りは騒動の様相を呈してきた。

「街の人達が言っている、逃げたラゴスと言う盗人は、こんな騒ぎが起きる程の極悪人なの?」

「極悪人、と言うか……。────ラゴスってのは、噂じゃ、テパとか言う村からペルポイに流れて来たって言われてるコソ泥でな。何仕出かしたんだか知らないが、大方、逃げ出すしかない悪さを働いたんだろうさ。本当にケチなコソ泥で、大きなことは出来ないくせに質の悪い奴で、この街でも、空き巣だの、掻っ払いだのスリだのって、そんなことばっかり、それも幾度も幾度も繰り返しやがって、この間、やっと捕まったんだ。だってのに…………。……それにしても、ラゴスの奴、どうやって逃げたんだかな。牢からは出られても、この街自体からは出られないだろうに」

街の者達の慌て振りに、ラゴスと言う者は、こんな騒ぎが起きる程の極悪人なのか、とローザは想像したようだったが、男は、極悪人とまでは言えないコソ泥でしかないけれど、コソ泥であるが故に質が悪い、と首を横に振る。

「確か、ペルポイの牢は、教会の裏手にありましたよね。…………どうします?」

「……覗くだけ覗いてみるか? 力になれることがあるかも知れないし、この様子では、騒ぎが落ち着くまで、僕達も街から出して貰えそうにないしな」

「そうねえ……。凄い騒ぎになってしまっているもの」

成程、ラゴスはそういう意味で碌でもない奴なのか、と男の話を聞き終えた三人は、この騒ぎの理由には納得し、だが、そうなると、このままでは街から出られないかも、との不安に駆られ、教会と、教会の直ぐ近くにある牢へ行ってみることにした。

「…………あ、すみません」

「いや、こちらこそ」

────力になれるかどうかは判らぬが、唯、黙って足止めを喰らうのに甘んじているよりは、と向かった教会が見えてきた時、曲がり角で、ふらふらと覚束ぬ足取りで彷徨う風に通りを歩いていた若い男の肩と、擦れ違い様、アレンの肩が触れ合った。

「あ、あの……」

直ぐに詫びた相手に軽い会釈を返し、辻を曲がろうとした彼を、若い男は呼び止める。

「貴方は、私のことを知りませんか?」

「……は?」

「私の名前はルーク。ルークと言います。しかし、それ以外思い出せないのです。気付いたら、この街の近くの海岸に倒れていました。通り掛った漁師の皆さんに助けて頂いて、今は教会でお世話になっているのですが、何時まで経っても、名前しか……。ですから、誰か、私を知っている人がいないかと思いまして……」

「ああ、そういう事情で……。だが、僕達は初対面だ。力になれなくて、すまない」

「いえ…………。私こそ、失礼しました。では……」

未だ何か? と肩越しに振り返ったアレンへ、男──ルークは出し抜けに、『自分を知らないか』と問い、言われている意味が判らず、きょとんとなった三人へ、訳を打ち明けた。

しかし、三人の誰も彼とは初対面で、下手な慰めを言うよりはいいだろう、と正直にアレンが告げれば、ルークは肩を落とし、又、覚束無い足取りで、教会前の通りより何処へと去って行った。

「あの彼が、数ヶ月前、邪神教団の信徒がここに入り込む直前に、街の人達が助けた遭難者なんですね、きっと。遭難した挙げ句、記憶喪失になってしまったなんて……」

「みたいだな。名前以外の何かを、少しでも思い出せればいいんだが」

既に見えなくなってしまったルークを見送る風に、立ち止まったまま、アーサーとアレンは同情を寄せ、

「記憶喪────。……あら? ルークって名乗ったわよね、今の彼。ザハンの海岸で、二度と還らぬ人を待っていた女性の恋人の名も、ルークではなかったかしら?」

そう言えば……、とローザは記憶を手繰り寄せる。

「………………あ」

「……ああ。うん、そうだった。確かに彼女は、恋人のルークが、と言っていた」

ザハンでの一幕を思い出した彼女に言われ、少年達もハッとしたようになって、どうしよう、ルークを追い掛けるべきか、とちょっぴり慌てたけれども、「待って」とローザは二人を留めた。

「ルーク、と言う名の歳若い男性は、世界にたった一人じゃないわ。もしかしたら、名が同じだけの別人かも知れない。だから、迂闊なことは言わない方がいいと思うの。彼が、ザハンの村のルークではなかったら、彼も、ザハンの彼女も、今以上に傷付いてしまうでしょうから、確かなことが判るまで、彼に直接話すのは止めない? 教会の神父様に、そういう話を聞いたことがある、と伝えておく程度がいいんじゃないかしら」

「うーん……。それもそうか…………」

「……そうですね。なら、僕達の心当たりのことは、ローザの言う通り、神父様にそっと打ち明けるだけにしておきましょうか」

駆け出そうとした足を留めて、何故? と訝しんだアレンとアーサーに、ローザは、期待させておいて、もしもそれが外れたら、却って残酷な結果しか生まない、と主張し、確かに……、と少年達も考え込んで、必要以上の口出しはしないでおこうと決める。

「『ザハンのルーク』と、先程の彼が、同じルークだといいですね」

「そうだったら、私も嬉しいわ。故郷に戻って恋人と再会すれば、記憶も取り戻せるかも知れないし、あの彼女だって、正気に戻るかも知れないもの」

「僕も。恋人同士の顛末は、幸せに終わる方がいいしな」

「そうですよねえ。一度は結ばれた恋人同士は、幸せになるのがいいですよね」

「それに、離れ離れになってしまった恋人同士が再び巡り会えたら、ロマンチックですものね。…………あ、一寸不謹慎だったかしら」

────『ペルポイのルーク』のことも、『ザハンのルーク』のことも、一度ひとたび忘れることにし、教会へと向き直った三人は、恋人達の物語は、幸福な幕が下ろされるのがいい、と言い合った。

……そんな、他愛無いと言えば他愛無い語らいに興じつつも──否、そんなやり取りをしてしまったからこそかも知れない、アレンは思わず、左隣を歩くローザを意識してしまって。

恋心には、思うようには蓋が出来ないらしい。厄介だな……、と小さな溜息を吐いてから、着いた教会の扉を潜った。