その日から数日間の自室となる部屋に宴より戻って直ぐさま、寝台に積み上げられた枕の一つを掴み上げ、アレンは、壁目掛けてぶん投げた。

「ああ、もうっ! 本当に叔父上はっっ!! 闘技大会のことだけなら未だしもっ!」

「まあまあ……。そんなに荒れないで下さい。アレンの前で言われたくらいです、冗談以外の何物でもないじゃないですか」

「そうよ。陛下のあれも、私は気にしていないわ。元々から、ああいう方なのでしょう? それに、貴方が諌めてくれたじゃない」

言わずもがな、部屋まで共にくっ付いて来たアーサーとローザは、床に落ち、べしょりと音立ててひしゃげた柔らかそうな枕を気の毒気に眺めながら、アレンとは対照的に、何処となく機嫌良さげに彼を宥める。

どうも二人は、彼が、デルコンダル王の質の悪過ぎる冗談から身を呈する風に庇ってくれたのを、喜んでいるようだった。

「それは……でも…………。──……けど、まあ、あれで済んだだけ、今夜はましかな……」

アレンにしてみれば些細且つ当然なことを、二人があからさまに喜ぶ理由は判らなかったけれど、あんな冗談でも水に流せると言うなら、と彼は疲れた顔して寝台に座り込み、ローザとアーサーも、彼を挟むように腰掛ける。

「本気のからかいは、もっと凄い方なの?」

「凄まじそうですねえ、デルコンダル王の『本気』」

「いや。叔父上のことじゃないんだ。──叔父上は、恋多き人だと言ったろう? 見た通り妾妃も数多いし、義叔母上の実子で王太子の彼とは腹違いの王子王女も幾人もいる。尤も、あの叔父上に嫁がれただけあるのか、義叔母上も気持ちの大きい方で、叔父上の好きにさせているようだし、土台、僕が口を挟むことではないから、それはいいのだけど。こう言うのは何だが、その中に一人だけ、厄介な姫がいるんだ」

八つ当たりしたのとは別の枕を取り上げ、抱き込む風にしたそれに半ば顔を埋めながら、アレンは、今夜は未だましだと言い切れる理由を、潜めた声で語り出し、

「厄介? どういう意味でかしら」

「こう……野心溢れる、と言うか。何処かの大国の王家に輿入れする為なら、手段を問わず、どんなことでもやり兼ねない口……かな。歳は僕より上だけど、第五王女で、王位継承権はかなり低いから、君主になれる見込みは殆どないこの国でなく、大国の王妃の座に着くことで欲を満たそう、みたいな姫君」

「成程……。能くある話ですけど、魂胆を透けさせてしまっている辺りと、我欲の為には手段を選ばないって辺りが、厄介ですね。……って、御免なさい。言い過ぎちゃったかも」

「いや、実際、そうだから。二、三度しか対面してない僕ですら、関わりたくないと思うくらいだ。叔父上も、実母の妃殿下も窘めてはおられるみたいなんだが、聞く耳を持たない様子だしな。──と、まあ、そういう訳で。そんな彼女が媚を売りに来なかっただけ、今夜はましかな、と」

これが、デルコンダル行きを渋った『もう一つの問題』の正体、と彼は、アーサーとローザへ向けて苦く笑った。

「その方はその方なりに、色々と必死なんでしょうけど、それにしてもね」

「同情の余地がないとは言わないが。叔父上が惚れっぽいのもいけない」

「でも、そういうことなら、気を付けてね、アーサー」

「そうだ。気を付けてくれ、アーサー。間違いを起こさせてしまったら、サマルトリア王にも叔父上にも顔向け出来ない」

「…………ローザ、からかうのは止めて下さい。アレンも、自分ばかり棚に上げて」

「僕は、彼女の従弟だから。目を付けられるとしたら、君かな、と」

「従兄弟同士で婚姻した例なんて、何処の王家にも幾らだって転がってるでしょうが。……全くもう、二人して。僕は、自称・司祭なんですよ? 簡単に間違いなんて起こしませんー、だ。──それよりも、そろそろ寝ませんか。明日のこともありますから」

三人並んで仲良く座りながら、暫し『厄介なお姫様』に付いて話し込み、ローザとアレンはアーサーをからかい、アーサーは二人にからかわれ、ともしてから、彼等は早めの就寝を決めた。

やはり、同じ部屋の一つの寝台に、仲良く横たわって。

翌日。太陽が中天に差し掛かる少し前。

デルコンダル王都で一番の余興の『余興』として、アレンは、王都の者達が『戦いの広場』と呼ぶコロシアムに立った。

王族専用の貴賓席で、自らけしかけた戦いに挑む甥を眺め下ろすデルコンダル王は、何を企んでいるやら、腹に何かを隠している笑みを浮かべ通しだったが、共に席に着いたアーサーとローザは、愛想笑いすら拵える気になれず、何とかして、叔父上の道楽を止めさせる術はないものかと考えながら、一人、時を待つアレンの心中は、複雑で、そして重かった。

────戦いに赴く直前、叔父王から聞き出した話によれば、わざわざ、人肉を喰らう獰猛なキラータイガーなぞを生け捕りにした理由は、コロシアムにて自ら戦う為で、『力』こそが正義とされるこの国の君主として在る以上、時に、そういう『余興』もしてみせなくてはならない、とのことだったので、だと言うなら、それこそ『力』こそが正義であるデルコンダルの王として、「この程度のことはしてみせろ」と呆気無く言って退けた叔父王の気持ちや『基準』は理解出来なくもないが、相手が魔物であろうとも、決して趣味の良い話じゃない、と彼は、少々の遣る瀬無さと共に、コロシアムの西側の壁の一画に設えられた、キラーパンサーの檻を見遣る。

「……すまないな」

鉄格子の向こう側に閉じ込められている、赤毛を逆立て、自身の顔よりも長い牙を剥き、誰彼構わず威嚇している魔物へと、彼は、小さく呟いた。

傲慢だ、と思いつつも、言わずにはいられなかった。

…………魔物は、人を襲い喰らう、文字通り『魔の物』。

故に、魔物を殺しても、良心の呵責を感じる者など極々僅か。

己とて、こうしていても、人を殺してしまった時のような罪悪感は覚えない。

かも知れない、でしかなくとも、世界を脅かそうとしているハーゴン達の許に辿り着く為の手助けとなる『力』の一つである、月の紋章を手に入れるには仕方の無いことと割り切れている。

それが、世界の為ならば、と。

本来なら『人の世界』近くで暮らせる魔物達が人間を襲い始めた理由が、大魔王ゾーマや竜王が君臨していた時代と同じく、ハーゴン達にあるのなら、邪神教団が、ハーゴンが、この世から姿消した時、魔物が無闇に人を襲うことも、人が無闇に魔物を襲うことも、きっとなくなるのだろうから……、とも思う。

けれど、そんな或る種の『理想の世界』は、恐らく、邪神教団やハーゴンの消えた先にしかなく、その『先』へ向かう為にも、少なくとも自分達には『力』が必要で、だから、『今は凶悪な魔物』を討たなくてならず。

……さて、この、どうにも折り合いの付かない『今の世界』に対する『答え』は、一体、何処にあるのだろう、と思わされてならないから。

────だから。

アレンは詫びを告げ。

「始め!!」

…………だが、座していた貴賓席の中央ですくっと立ち上がったデルコンダル王が放った、強く高い掛け声に合わせ、ガラガラと、鉄の擦れ合う音立てつつ開かれた檻より飛び出した、キラータイガーを見据えた彼の瞳の紺碧は、既に、傲慢としか言えない詫びを呟いた刹那とは、宿る光の色を違えていた。

戦いの広場を取り巻く観覧席を埋め尽くした、始まった『余興』を固唾を飲んで見守る王都の者達が、咄嗟に身を竦め、又は叫んだ程に恐ろしい唸り声を上げる魔物が、己目掛けて一直線に突進して来ても、もう、彼の瞳は揺らがず。

──闘技場を覆う薄茶の砂捲き上げつつはしった魔物は、一瞬のみ躯を沈め、地を蹴り、高く跳んだ。

鞘ずれの音も立てず剣を抜き去ったアレンは、中段に構えたそれを、左から右へ、真横に薙いだ。

跳躍し、獲物の頭上より襲い掛からんとする、ガバリとあぎとを開いたキラータイガーの、鋭く長い二本の牙がアレンに穿たれる寸前、振るわれた剣は魔物の躯毎牙を弾き返し、地に堕ちたそれは、ギャン、と鳴いた。

鳴き声は、何処か哀れで。

この、せめて一思いに、との想いも、恐らくは傲慢としか言えぬものなのだろうと、ほんの一瞬、憂いを覚えはすれども。

彼は、面持ち一つ変えず、魔物の急所目掛け、剣を突き立てた。

敢えて浴びた返り血は、暖かく、けれど何故か冷たくもあって、少しだけ、泣きたくなった。