─ Swamp of poison ─

青色の上着を脱ぎ捨て、薄手の武装服──プールポワンと言う、鎖帷子や鎧の下に着込む為の物の袖を肩近くまで捲り、ブーツも脱いで、ズボンの裾も念入りに上げると、「ん!」と自分で自分に気合いを入れ、アレンは沼へと一歩踏み込んだ。

これぞ毒沼、としか言い様のない、濁って黒み掛かったどぎつい紫色をしているそこから感じた感触は、確かに泥で、けれど、底を足裏で踏み締めた直後、シュ……、と肌が爛れる嫌な音がし、痛みと痺れに襲われた。

「……っっ」

「アレン!」

「…………大丈夫」

片目だけをきつく瞑り、息詰めた彼を見守っていたアーサーは早くも叫びを上げたが、アレンは駆け寄って来ようとした彼を制し、鈍い進みながらも沼地の奥を目指す。

一歩、又一歩と進む度、足先から項へ掛けて、痛みと痺れが背を這い上ったけれども、耐えられぬ程ではなく、沼から上がる頃合いさえ見誤らなければ、何とかはなりそうだった。

幸い、思っていたよりも浅い、最も深度のありそうな処でも彼の膝丈程度の沼だったので、足先で底を覆う泥を蹴りつつ、突っ込んだ両手でも掻きつつ、彼はラーの鏡を探し続けたのだが。

限界は、予想外に早かった。

爛れ膿んだ手足から流れ出した血が、体の温もりを奪うと同時に眩暈を引き起こし始め、傷口から体内へと忍び込んだ毒は、ゆっくりと、けれど確かに廻り出し。泥の中へ顔から突っ伏しそうになる寸前、這うようにしながら沼より上がって、アーサーに毒抜きと癒しをして貰っては沼に入って、の繰り返しをアレンはひたすら続けたけれども、何も見付けられぬまま日没が来てしまった。

陽が落ちてしまっては、沼浚いをしつつの探し物など無理な相談で、一旦切り上げた彼は、気を回して野営の準備を全て引き受けてくれたアーサーの気持ちに正直に甘え、焚き火の前に疲れ果てた顔して座り込んだ。

爛れの痕一つ残らぬまで体を癒せはすれど、呪文では、流れ出た血の補いや抱えた疲れを払うことは出来ず、沼地の右半分、との朧げな目星が付いている分だけ未だましなのだろうが、たった一人で、人の顔よりも若干大きい程度の径しかない鏡一枚を探し当てるには広過ぎる沼が与えてくる心の疲れも酷くて、彼は秘かに溜息を零す。

幼かった頃、寄って集って語り聞かせられたロト伝説の中には、勇者ロトが、魔物討伐に必要な魔法具や神具を求めて、毒の沼だの何だのの中を探し回る羽目になる件が何度も登場したし、曾お祖父様も、一度は竜王配下の魔物達に奪われたロトの印を探して、広い毒沼の中を彷徨われたと聞いている、ロトの一族は先祖代々、こんな重労働をさせられる運命も持っているのかと、朦朧とし始めた頭で、ぼんやり……、と先祖より伝わる血に愚痴垂れながら、彼は何時しか眠りに落ちた。

…………が。

そんな時に限って、真夜中過ぎ、邪神教団の信徒達が姿を現した。

来る日も来る日も戦いばかりの旅を続ける内、祖国で過ごしていた頃よりも鋭敏になった五感は、深い眠りに落ちていた彼を無理矢理叩き起こして剣を取らせ、アーサーに悟られるより早く奴等を倒せと強いてきて、結局、以降は碌に眠れず、明くる朝、「今日一日探してもラーの鏡が見付からなかったら、一度ひとたび鏡探しは諦めて、ムーンペタに戻ろう」と固く誓ってから、アレンは、再度の沼浚いに挑む。

半ばやけくそ気味に、ずかずかと最奥まで分け入り、いい加減に姿を見せろ! と鬼気迫る感じで泥を浚う彼に臆した訳ではなかろうが、そんな彼の背中に、アーサーの、「アレンー! 落ち着いてー!!」との宥めの声が飛んでくるようになった頃。

指先が、何か硬い物に触れた。

昨日も今日も、そんな刹那は幾度かあり、その度、期待しつつ取り上げてみるも、手に出来たのは単なる石塊でしかなかったので、又もや期待を裏切られたら、涙で前が霞むかも知れない……、とすら思いつつ、触れたそれを掴んだ腕を引けば。

「か……がみ? ……ラーの鏡!」

ズボリと、何処となく間抜けな音を立てて嵌っていた泥から抜け出た、円盤状の板が出てきた。

びっしりと泥に塗れたそれは何が何やらだったが、掌で撫でるように払い落とした泥の下から、巧緻こうちを極めた細工を施された縁取りが顔を覗かせ、見付けた! と振り返ったアレンは、アーサーへ、高々と鏡を掲げてみせる。

「あああああ! あったぁぁぁぁぁぁぁ!! って、アレン、早く! 早く上がって下さいっっ!」

見せられたそれに、瞳を見開いて喜びを露にしながらも、アーサーは悲鳴を上げた。

そのまま、ラーの鏡を抱えて河辺へ走って、二人は鏡を清めた。

毒沼の泥を洗い落とした彼の手足を癒しながら、ぶつくさぶつくさ、「無茶ばかりして」と説教を垂れ出したアーサーに苦笑を返したアレンが改めて手にしたラーの鏡は、ロト縁の秘宝の品に相応しい姿をしていた。

薄く叩き伸ばした黄金の台を縁取るのは、これ又薄く削った翡翠らしい貴石を蔦の如く複雑に絡めつつ配し、所々に蒼玉を設えた細工で、その中央には、勇者ロトを生んだ世界の物らしい文字が刻まれた、黄金色した板に嵌る鏡面が据えられていた。

「へー……。これがラーの鏡。僕も見るのは初めてですけど……随分、細かな手仕事がされてる鏡ですね」

「ああ。でも…………」

これが、伝説の、真実を映す鏡か、とアレンへの説教垂れと治癒を終えたアーサーも、アレン自身も、感慨深気になったけれど、本物なのだろうかと、彼等は恐る恐る、陽光を弾いて白金に輝く鏡面を覗き込む。

が、その際の伝説の鏡は、毎朝支度を整える際に使う、極々普通の鏡と同じものしか映さず、

「…………まあ、当たり前か。僕達に、真の姿も何もある訳も無し」

「全然違う姿が映ったら、それはそれで怖いですしね。じゃ、早速ですけど、ムーンペタに帰りましょう」

拍子抜けしたような心地になって、二人は立ち上がった。

「……だな。今度は、ローザ姫を捜さなくては。姫の行方に関しては、何も判っていないしな」

「ああ、それなんですけどね。もしかしたら、姫は直ぐに見付かるかも知れませんよ」

魔物に奪われたラーの鏡を探し当てると言う大仕事は終えられたが、今度はローザ姫を見付け出すと言う大仕事が待っている、と呟いたアレンに、アーサーは、やけに軽く言う。

「何故?」

「ムーンペタの宿のお女将さんに飼い主探しをお願いした、例のあの仔。ひょっとしたら、あの仔が、変化の呪いで姿を変えられてしまったローザ姫じゃないかと思うんです」

「…………どうして」

「あの仔、紅眼だったでしょう? ローザ姫もそうです。……変化の呪いでも、呪う相手の瞳の色までは変えられないんじゃないか、って思うんですよ。変える必要が無いですし。だから、試してみる価値はあるかと」

「成程。けど……あの仔が姫だったら、僕は、どうしたら……」

「どうしたら、って、それこそ、どうしてです?」

「知らなかったとは言え、僕はあの仔を捕まえて、隅々まで洗ってしまった…………」

「……あの仔が姫だったら。そのことを忘れてくれているか、気にしないでいてくれるかを祈りましょう。それしかないです、多分。覚えていて気にもしていたら、アレン、引っ叩かれるかも知れませんけど……」

「…………嫌なこと言うな」

「ま、まあまあ。未だ判りませんし」

だとするなら僥倖だが、個人的には後が怖い、と蒼褪めつつも、しっかりとラーの鏡を胸に抱いたアレンを一応だけ宥め、アーサーは、取り出したキメラの翼を宙に放った。