『今日の終わりに』

  


 

 闇に包まれながら。
 お互いの、呼吸と鼓動ばかりを聞いていた。目を閉じて、どれくらいの時が経ったのかよく解らない。意識は夢と現の狭間を、どっちつかずに行ったり来たりしている。どうしたことか、今宵は眠りが、寸での所でなかなか手に届かなかった。意識は沈みかけたと思うと、外の物音や何やに揺らされて、浮上してしまう。けれど、別段眠りに付きたいと焦ってはいない。だからエドガーは眠りが向うからやってくるのを、のんびりと待っている。
 眠気がまだ訪れていないのに、ふとした拍子に欠伸が漏れた。深く吸い込んだ息は、音を出さぬよう、細く長い溜息に変わる。傍らにいる男の、耳に障らないように。
 しかし。
 声は、前触れもなく落とされた。
「起きているか、まだ」
 静かな声に引き寄せられて、目蓋を上げた。意識は一挙に現実の側に立ち戻る。
 随分と久し振りに目を開けた気がした。しかし開いた眼に、映る物は何一つない。声の主の顔を探したが、見えなかった。暗い部屋。暗いベッドの上。男の放出している、柔らかく心地のよい気配はエドガーの傍に寄り添って、自分は確かにその気配の中に包まっているというのに。
「起こしたか」
 喋るトーンが明瞭であるから、男も自分と同様にまだ起きていたのだと解る。
「いいや。まだ、少し起きていた」
 おかしな受け答えをして、エドガーは掛布の中に頭から潜り込むとくずくずと身じろぎを始めた。傍にいた男が身を少し引いた。エドガーが体を反転させ、背中を男の胸にくっつけた。男が腕を体に回すと、エドガーの上体は、あつらえたようにぴったりと、男の胸に収まった。いい具合である。肌の温さを直に感じる。目に見えぬ男の存在が、これでやっと明確になり、エドガーは満足した。
 首の筋に乾いた唇が触れた。くすぐったくて身を捩る。けれど唇は離れてくれず、そのままくぐもった声が耳の近くでした。
「眠れない?」
「と、いう程でもないかな」
「何か、飲むか。酒や、ホットミルクや」
 言葉の合間に柔らかな笑いが混じる。
 むっとしてエドガーは答えた。
「いらない」
「何か、話したいことは」
「ない」
「じゃあ、何か話して欲しいことは。ベッドサイドストーリーの一つもしてやろうか」
「いい。子供扱いするな」
 抱き竦められてベッドの上。窮屈な中で、エドガーは小さく首を振った。寝物語の必要な子供の時はもうとっくの昔に過ぎている。
「何も、いらない。どうせいつかは眠れるだろう。だから、このままで」
 充分だ。
 屈していた膝を伸ばし、頭の位置を上に持っていく。男は体の下にあった腕を一緒に移動させ、頭を二の腕に乗せてくれた。頭を男の肩に預ける。隙間の出来ぬよう、よりぴったりとくっついた。
「このままで?」
 どこか物足りなさそうな、不服そうな声が背骨に響いた。
「何も、いらねえのか」
 そうだよ。エドガーは囁いた。頭は厚い布を被ったままでいるから、言葉が男の耳に届いているかは解らない。解らないまま、続ける。
「いらない、このままで。このままが、いい」
「ああ」
 ややして応えがあって、安堵する。続ける。
「君がいて、な。それだけで」
「ああ」
「まあ少しだけ、悔しい気もするけれどな」
「……ああ」
 昔は、一人でもちゃんと一日をやり果せていたのに、今でもう、この男がいないと上手くいかない。それが、ほんの少しだけ、悔しいが。この男さえいてくれれば、どんな一日であっても綺麗に収まってくれる。二人の体躯が、こうしてしっくりと添うように。だから、こうして眠りの訪れが遅い夜でも、安心して待っていられる。
「だから、大丈夫。何も、いらない」
 目を閉じると、ざわついて落ち着かなかった神経が、意識の奥底で凪いでいくのが解った。睡魔の訪れる気配はまだなかった。けれど、これだけは意識のまだはっきりとしている内に、言っておかなければ。
「お休み」
「ああ、お休み」

 折角うとうと出来ていたのに、不意に目が覚めてしまった。驚いて一瞬、反射的にびくりと震えてしまった後で、腕の中の男の存在に気付く。恐る恐る耳を澄ます、聞こえてくる男の息は規則的である。起こしてはいないようだ。安堵の息を、ひっそりと漏らした。頸を捻り、斜に窓の外を覗くと暗碧の空に幾つかの星を見つけた。朝はまだ遠い。
「……このままで」
 呟いた。声には出さず、けれどしっかりと舌の先に言葉を乗せる。
 眼を閉じる。男の肩に鼻先を埋めて。
「確かに、そう、だあな」
 エドガーの言う通りだ。
「お前がいるだけでいい。俺も」
 最後の台詞だけ、そっと音にして耳に吹き込んだ。
 一日の終わり、その一番最後に傍にいるのが、彼であるというだけで。
 必ず、めでたしめでたし、で終わる寝物語のように。
 ああ今日もいい一日だった、で終えられる。
 こうして二人で寄り添っていて。
 だから、それ以上のものは、何もいらない。
 

End