ポストに、少し大きめの封筒が届けられていたのは、彼の通う大学が春休みに入って暫く後の事だった。
 中身は、一枚のCDと一冊の文庫本。
 CDの題名は、シューベルト作曲の歌曲『冬の旅』。
 本の方はシェイクスピア作『オセロー』。
 差し出し人の名は、大野りんと記されていた。
 たったそれだけの物だ。
 他人にとっては何の意味も成さぬかも知れない。
 が、受け取った彼一一的場圭一郎にとっては、その日の内に故郷へ旅立つ用意を整えるほど、充分な意味を持った物だった。

 

***

 

 未だ、春浅い三月の信州。
 その中でも、特に避暑地として名高い北佐久郡軽井沢町は、例年通りであるならば、未だ深い冬の中にいる筈だった。
 けれどその日と言えば、陽射しはまるで初夏の様で、町は新たに通った整備新幹線の為に改築された駅舎や、人影も疎らな軽井沢銀座を雪解け水で濡らしていた。
 五月の連休を過ぎると、徐々に観光客で満たされる大通りや駅前の道も、閑散としたものだ。
 一年の半分が賑やかで、半分が寂しい。
 ここは、そんな町だった。

 

 午前九時三十分前後。
 そんな静寂の町を、パトカーのサイレンが駆け抜けていった。
 けたたましい音は、白樺林を縫う林道を過ぎ、一軒の住宅の前で止まった。
 玄関先に待つのは、前掛けをした中年の女性。
 おろおろと、今にも泣きそうな顔で到着した警官を出迎え、中へと促す。
 先頭の車からは数名の警官と、やはり数名の私服刑事。
 後続からは鑑識の人間だろう、様々な道具を持った者達が駆け込んでいった。

 

「土屋さん。…では…鍵を開けたのは、貴方なんですね?」
 事情聴取に脅えた様に答えている、土屋妙子と名乗った女性に、軽井沢署の栗田刑事は優しく尋ねた。
 頷くだけの彼女から、通報までの経緯を聞き出すのに一苦労しているのだ。
 少しでも緊張を解いて欲しくて、いかつい顔に精一杯の笑みを浮かべたのだが、効果は全く無かった。
 隣で、同僚の黒沢も肩を竦めている。
 ……無理もないか…。
 と、心の中で栗田はそっと溜息を付いた。
 少しだけ有名な避暑地、その実、誰も知らない片田舎と何ら変わりないこの町で、人殺しが起こっちまったんだ。しかも、このおばちゃんが第一発見者ときちゃあ……。
「…いけね。何考えてんだ、俺は。こんな時こそしっかりしなくちゃ。警察官なんだからな」
 こっそりと呟いて、ともすれば妙子と共に途方に暮れそうな自身の心を引き締めて、栗田は再度聴取を開始しようと気合を入れた。
 刑事となって、この町に配属されてはや八年、未だかつて、殺人事件などにお目に掛かったことは皆無だった。
 だが、初めての事だからと言って、刑事の自分が戸惑ってもいられない。
「それで、どうしたんです?」
 ゆっくりと子供に聞かせる様に話し掛けると、妙子は又、ぽつりと話し出した。
「私…りんさんが出てこないのでもしかしたら具合でも悪いんじゃないかと…そう思って…。だから取り合えず居間と台所の窓を開けてから、寝室を見に行ったんです。そしたら……あの……」
一一そこまで話して、彼女はわあわあと泣き出してしまった。
「これ以上は無理だな。取り合えず、署に同行して貰おうよ」
 おろおろする栗田を見兼ねたのか、黒沢が彼女の肩をぽんぽんと優しく叩き、階下へ促す。
 同僚の配慮に、救われたとほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、
「…け…警察に行くんですか?…わた…私、なんにも知りません!私…私…」
 と、妙子は取り乱した。
「別に、奥さんが犯人だなんて思ってませんよ。一緒に警察行って、事情をもっと詳しく聴きたいだけです、我々は。ね?大丈夫だから」
 宥め、すかしながら黒沢は妙子をパトカーへと引っ張って行き、殺人事件未経験者の田舎刑事は、やっと第一発見者から開放され、溜息付き付き、事情を聴いていた一階の居間から階段を昇り、二階の現場へと上がった。
「どうだあ?」
「今の所は何とも」
 仲間に声を掛けたが、冷たくあしらわれて彼は所在無げにクローゼットを開けてみた。
 鑑識の者達は凶器を仕舞ったり指紋を取ったり、ゴミを拾ったりと忙しそうで、彼の相手などしてくれない。彼等にとっても恐らく初めての殺人事件なのだから、無理もないのだろう。
 クローゼットを調べるにも、邪魔にならない様に、彼は柔道選手の様な大きな体を出来るだけちぢこめた。
 いかつい顔も図体も、署で一番でっかい割りに、小心であった。
 ふうん…。随分しゃれた服ばかりだ事…。そうか…。彼女も『来たりっぽ』だっけ。
 おざなりにクローゼットを調べて、扉を締めると、彼は自分のよれたスーツを見ながら物思いに浸った。
 『来たりっぽ』とはこの地方の方言で、町外からやって来た者の事を指す。
 要するに、よそ者、と云う意味だ。
 彼自身出身は東京で、赴任してきた当時、よく老人達に、
『あんた、来たりっぽか?』
 と言われたものだ。
 尤も警察官と云う職業柄、それでとやかく言われることは無かったが、犠牲者の様に東京からこの町に嫁いで来たとなるば、近所から、何かと言われる事が多かっただろう。
 可哀想になあ…。
一一同じ東京出身の、死体を、彼は振り返った。
 自身の勝手な想像から、彼は被害者に同情の念を持って見下ろした。
 発見された時のまま、被害者は床に転がっている。
 頭を割られて、血を流して。
 そっと手を合わせた時、鑑識員が、
「運んでも宜しいですか?」
 と担架を指差しながら、彼に聴いた。

 

 その日、土屋妙子は、いつもの様に午前九時五分前、大野家の玄関に着いた。
 大野家は彼女の職場で、妙子はそこで家政婦として働いていた。
 時間は、午前九時から午後六時まで。休憩は正午からの一時間。時給は九百五十円。自分にも家庭があるので、日曜と祝日が休み。掃除と食料や日用品の買い出し、そして昼食と夕食を作る事。
 それが彼女の仕事だった。
 少々、勤務時間が長い事が不満だったが、近所の主婦よりも時給が良い仕事をしていると云う点で、納得はしていた。
 観光シーズンだけの、旅行客相手の仕事より、ずっと楽で安定している。
 そんな仕事に就けた事が一寸とした自慢だった。
 彼女は、入院している姑と年頃の娘を抱えている家庭の主婦だ。
 夫の給料だけでは心もとなかった。
 一一妙子は、呼鈴を鳴らした。
 そうすれば、この家の女主人である大野りんが、彼女の為にドアを開けてくれる筈なのだ。
 …奥さん、最近機嫌悪そうなのよね…。まあ、あたしには関係無い事だけど。別にそれで八つ当たりされる訳でもなし。来たりっぽで若いにしちゃ良く出来てる方だし。
 そんな事を考えながら、彼女は待った。
 だがその日に限ってドアは開かなかった。
 ピンポーン…。
 再度、呼鈴を鳴らしたが、事態は変わらない。
 仕方ないわ…。
 ぶつぶつと文句を口の中で唱えながらしゃがみ、万一の時にと預かっていた合鍵を、ハンドバッグの底から探り出した。
「奥さーん。おはようございますー、土屋ですー。入りますよー」
 大声で声を掛けながら、玄関を上がる。
 勝手知ったる他人の家だ。
 先ず居間へ向かい、カーテンと窓を開け、キッチンでも同じ事をした。
「具合でも悪いのかしら…。お医者様の奥さんなのに、いやあね」
 トントン…と、スリッパを履いた足音をさせ、前掛けを付けながら階段を上がった。
 夫婦の寝室は二階の突き当たり。
 町外れの病院で勤務医をしている主人は、確か夕べ当直だと言っていたから、奥さん一人の筈だ。
「奥さん。りんさん。土屋です。入りますよお。具合でも悪いんですか?」
 ノックをし、妙子は、ドアノブに手を掛けた。
 一一何故だか、嫌な気分がした。
 まるで入院している姑の病室に行った時の様な気分になった。
 それでも、様子を見ようと、そっと妙子は中を覗いた。
 入ってすぐ視界の左側に映るベッドに、人の寝ている盛り上がりは無かった。
 カーテンは閉まったままで、中は薄暗い。
 様子が良く判らないので、隙間から手だけ延ばして電気を付けた。
「あらあ?」
 誰もいない。
 出掛けたのか?…と思った途端、心の内から、主人が寝ているかも知れない寝室を覗いたと云う少しばかりの罪悪感が消えて、妙子は大きくドアを開けた。
 一歩を踏み入れる。
 それまでドアで視界から隠れていた壁際の家具の方の床に、見慣れぬ何かが転がっていた。
 瞳を凝らした。
 ……何かは、血を流して倒れている、彼女の女主人だった。
「ひっ…ひいい!」
 言葉にならない叫びを上げて、這う様に階段を下りると、夢中で110番をダイヤルした。
「けっ…警察ですかっっ。アッ…あの、ひっ人が死んでますっっ」
「落ち着いて下さい。先ず、そちらの住所を落ち着いて、はっきりと」
 一一冷静な警察官の声に励まされ、番地と氏名を告げながら、妙子はこれが夢であればいいのにと願うと同時に、この恐ろしい職場を辞めざるを得ない自分の家庭の、これからの家計をどうしようと云う思いが駆け巡っていた。

 

 同日の午後。
 土屋妙子は事情を一切一一何とか喋り終え、自宅へと帰された。
 軽井沢署は突然の殺人事件に騒然とし、妙子の帰宅と同時に、この小さな町も、大変な騒ぎに包まれた。
 女の口に戸は立てられない。
 話はあっという間に広がり…夕方には町中の人間が事件の『事情通』になっていた。
 そして彼女の帰宅とは入れ違いに、事件当日夜勤で家を留守にしていた被害者の夫、大野秀明が警察へ駆け込んできた。
「すみませんっ。わた…私、大野りんの夫の…大野秀明と云う者です!。妻は!?」
 情け無い顔をして、受付に顔を乗り出す。
 整った顔には不精髭が浮かび、きっといつも整えられている髪は乱れて、高そうなスーツも、きちんと身に着けてはいなかった。
「こちらです」
 その勢いに少し尻込みをしながら、受付の婦人警官は霊安室へと秀明を案内した。
「…りん…。りん……」
 固く、冷たいベッドの上に寝かされて面に白い布を被らされている亡き妻に縋って、夫は泣いている様だった。
「大野さん」
 その様子を、入口からじっと眺めていた栗田と黒沢は、涙が収まるのを待って、声を掛けた。
「…あ…はい…」
 と振り返った姿に、ぺこりと一礼する。
「どうも。捜査一係の栗田と黒沢です。宜しかったら、お話を…」
「判ってます…」
 少し、ちぐはぐな返答をした秀明を、二人は別室へと連れていった。
 被害者の夫である大野秀明は、着衣が乱れている事を別にすれば、いかにも医者然とした、インテリ風の男だった。
 体格は、中肉中背と云った所で、普段は冷たく患者を見つめるだろう、縁無しの眼鏡の向こうの瞳は、虚ろだった。
 彼が着席すると、間発を置かず黒沢が口火を切る。
「先ず、昨夜の事から伺いましょうか。それからですね、随分こちらにいらっしゃるのが遅かった様ですが、何をなさってらっしゃったんです?」
「はい…。夕べは、私、病院の宿直当番に当たっていまして…。五時半頃食事を取って、少し仮眠をして、九時過ぎに家を出ました。それからずっと病院の方に。遅くなったのは朝、国道十八号線で交通事故があったのでその手術に手間取ってしまって…。つい先程終わったんです…。警察から連絡が入ったのは丁度手術最中でして…抜ける事も出来ませんでしたので」
 質問に、夫はそう答えた。
「…そうですか。一一大野さん。率直にお伺いしますが、今回の事件の犯人に付いて、心当たりはありますか?」
「有りません。あれは、人に恨まれる様な人間じゃない。キリスト教の信者で、毎週日曜日には教会にも通ってた。他人に恨まれる様な事をする人間じゃないんだ……。殺されるなんて、何かの間違いです。事故か何かじゃないんですか?」
 単刀直入過ぎる刑事の言葉も視線ごと、真正面に受け止める。
 悲しみよりも、憔悴を浮かべたこの男の表情を、栗田はふうん…、と見つめた。
 何となく、同情は出来なく、この場所から去りたかった。
 一一もうこれ以上は無理かな?一一
 丁度、そんな顔をこっちに向けて見せた黒沢に、頷きで同意した。
「判りました、取り合えず、今日の所はお帰りになって結構です。所在だけは出来るだけ明らかにして下さい」
「一一あの…妻の遺体は…」
「検死が終わり次第お返しします」
 栗田の言葉に、秀明はがっくりと肩を落とし、帰って行った。
「やれやれ…。忙しくなるな」
 その背中を見送りながら、黒沢が言った。
 栗田も、同様の思いだった。

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