***

 

 栗田達が、鳥居から新しい証言を引き出していたその日、圭一郎は再び『光の学園』を訪れていた。
 面会室のソファの向こうには、明彦がにこにこと笑いながら座っていた。
 二人の間を隔てるテーブルの上には、差し入れのケーキが置かれている。
「けーいちろっ。僕ねーうれしいの」
 満面の笑みを浮かべたまま、彼はそう言う。
「どうしてです?」
「やく…そく?…うん、『約束』。守ってくれた」
 たどたどしく、前回の去り際に、圭一郎が言った言葉を噛み締めるように、約束、約束と繰り返す。
 何度も。
 ……新しく覚えた言葉を使いたくてしょうがないのだろう。
「そうですね、又、来ると明彦と約束しましたからね」
 うわべだけは慈愛に満ちた表情で、圭一郎は明彦の笑みに答えた。
 が、その実、微笑みの裏では、全く違う事を彼は考えている。
 『約束』…か。
 そういえば、りんさんが、随分昔にこんな事言ってたっけ……。
 私は、幸せにならなきゃいけない。死んだ姉の分も。
 本当だったら幸せな日々を送るのは、私の姉の方だった。
 私は、姉さんの遺体と約束したの。幸せになるって……。
 一一確か、あれは父さん達が死んで、暫くした頃だ。
 明彦を大野先生の所に検診に連れていった時、居合わせた彼女に聴かされたんだ。
 だから、貴方も、ご両親の分まで幸せになりなさい。
 そう言って、僕を励ました。
 なのに駅であった時のりんさんはちっとも幸せそうじゃなかった。これから花嫁になる人なのに。
 どうしてだろう……。
「……けーいちろ…。また、僕のお話聴いてない」
 微笑みを顔面に張り付かせたまま回想の世界に浸っていた圭一郎を、明彦の声が呼び戻した。
 自分の話を聞いていなかったとふくれっ面をしている。
「…御免。ちょっと考え事していたんです」
「どうして?」
「明彦も知ってるでしょう?大野先生。お医者様の。…その先生の奥さん一一りんさんがね、亡くなったんですよ。…それでちょっと…ね。明彦は、りんさんも良く知ってますよね」
 頬を膨らませたままの明彦を諭す様に圭一郎は言った。その途端、彼の機嫌は直り、今度は目をきらきらさせて、その話を聞きたがった。
 死、と云う事が彼には理解出来ぬのに。
「亡くなるって?」
「…死ぬ事です」
「死ぬ事って?」
「うーん……もう二度と会えなくなることです」
「お父さんやお母さんに会えないみたいに?りんさんにも、もう会えないの?」
「そうですよ」
「ふうーん。りんさん、お父さんとお母さんみたいに、何処かずっととおくに行っちゃったんだね」
 うん、うん、と物知り風に明彦は圭一郎に頷き、判った様な顔をして、そう言った。
 何処か遠くに行ってしまった。
 ……五年前、両親の葬儀の夜に、もう二度と両親に会えない事を圭一郎が明彦に説明したのと同じ言葉を使って。
「そうですね……」
 圭一郎はそう答えるしか、出来なかった。
 そんな彼を余所に、明彦は得意気に喋り続ける。
「大野先生、可哀想だね。大切な人にもう会えないんだ。二度目なんだね。僕と圭一郎は一度なのにね」
 訝しげな、圭一郎の思いなど知るよしもなく、明彦は更に続けた。
「奥さんって大切な人なんだよね?」
「そうです。そうですけど…明彦、二度目って…どう云う意味です?」
 意外な事を口にした明彦に、圭一郎は戸惑い、尋ねた。
 彼は、屈託なく答える。
「んとね、ずうっと前に大野先生が教えてくれたの。病院に行った時。僕や圭一郎みたいに、先生も大切な人を亡くしたんだよって先生、言った。だから僕は、聞いたんだ。なあに、それ…って。そしたらね、先生は大切な人がとおくに行っちゃってもう二度と会えなくなったんだって、教えてくれたんだ。でもそれで先生は良かったって。だから、きっと先生奥さんをな…な…なくし、たんだ」
「先生が、奥さんを亡くしたのはついこの間です」
 明彦の教えてくれた事を、喉の奥で唱えながら圭一郎は明彦の言い分を正した。
「え?なんで?だって、大切な人って、『奥さん』なんでしょ?」
「そりゃ『奥さん』は大切な人ですけど、それだけじゃあないでしょう?家族だって、兄弟だって、大切な人ですよ。…自分の好きな人は皆、大切なんです。…だって、僕は明彦の事、大切な人だと思っていますが、明彦は僕の奥さんじゃないでしょ?」
「んー?良くわかんない。でも、大野先生、僕みたいにお父さんもお母さんも、遠くに行っちゃったって教えてくれたよ。かぞ…く?がいないって先生、僕に言ったのに、その『奥さん』以外に大切な人っているの?……やっぱり、僕良くわかんないや」
 明彦は、何処で覚えたのか大人びた仕種で肩を竦めると、話題に興味を無くした様で、テーブルのケーキにぱくつきだした。
「…でも…大野先生がそんな事を………」
「え?なあに、圭一郎」
「なんでもありませんよ。ケーキ、おいしいですか?」
「うんっっ」
 一一美味しそうにケーキを口に運ぶ明彦を頬杖を付いて見つめながら、圭一郎はある一つ可能性に付いて考えていた。
 それは、誰かを殺す気になったとばかり考えていた大野りんが、殺された事を知った時から彼の脳裏に湧いた荒唐無稽な可能性を弱冠裏付けるものであった。
 もしも。
 余りにも考えがたい事だけれども、もしも僕の考えた通りなら。
 僕はどうすればいいのだろう。
 僕は学生で、警察でも、小説に出てくる名探偵でもない。何も出来ない唯の人間なのだから……。
 求められても、望まれても、僕にはどうする事も出来ない……。
 一一自分の力のなさに、少しだけ嫌気がさして、圭一郎はケーキを平らげ、施設の職員が出してくれた紅茶を飲み干すと、立ち上がった。
「さてと。そろそろ、お暇します。落ち着いたら、又来ますね、明彦」
「うんっ。約束、だよ」
「はい。約束ですよ」
 いつもの様にばいばい、と手を振る弟に、手を振り返し、圭一郎は『光の学園』を去った。
 バスの時間まで、未だ少しばかり間が有ることを知ってはいたが、もうこれ以上ここに止まる気にはなれなかった。
『でも、先生はそれで良かった』
 と云う、さっきの明彦の言葉が、圭一郎の脳裏を駆け巡っているせいで。
 一一時々、明彦は障害児とは思えぬ程の記憶力の良さと洞察力を発揮する事がある。
 圭一郎が初めてその事に気付いたのは、五年前の、あの通夜の席だった。
 両親を亡くしたショックと、そのきっかけを作ってしまった弟に対する怒りとで、内心我を忘れかけながらも、彼は何とか喪主を務めていた。
 周囲の大人達は、そんな彼の心の内には気付かず、圭一郎君が立派だから、明彦君も大丈夫、などど勝手な事を言い合っていた。
 彼が未だ高校生だと云うことさえ、すっかりと忘れた様子で。
 尤も、圭一郎にとっては、大人達にそう思われていた方が何かと都合が良かったので、甘んじてその批評を受けていた。
 一一ある、瞬間だった。
 人々が段々と帰り出して、ふっと気が抜けたのかも知れない。
 弔問客を見送り、通夜の席へと戻ってきた彼を、明彦が呼び止めた。
「けーいちろっ」
 何時もの、幼い喋り方で。
「……何」
 努めて普段と変わりない返答をしたつもりの圭一郎に、明彦はこう言ったのだ。
「圭一郎、僕の事、いじめる?……ううん…えっと…きらい?」
 一一真っ直ぐに問い掛けてくる弟の眼差しを外すことも出来ず、圭一郎は戸惑った。
「そんな……。何で、そんな事を…」
「だって、圭一郎、お出かけから帰って来てから、ずっと僕の事怖い目で見てるもの。今が、一番怖いもの。…僕の事…きらい?」
 返す言葉も無かった。
 唯、絶句するだけしか出来なかった。
 ずっとずっと、明彦に対して芽生え掛けている深く暗い想いを、圭一郎は隠し通して来たつもりでいたから。
「そんな事…ないよ…。気のせいだよ。明彦の」
 そう言うのが、精一杯だった。
 明彦に対する感情を、彼にこそ知られてはならなかったのに……明彦は自分に向けられる兄の瞳の奥にある真実を、読み取っていたのだ。
 一一嫌な事を思い出した……。
 明彦がそうしたのを見習って、圭一郎は肩を竦め、バス停へと歩き出した。
 五年前、この会話をした時は、明彦に対して怒りの念しか圭一郎は抱く事は出来なかったけれど……無垢である明彦を羨む事しか出来なかったけれど…。
 それも、案外幸せではないのかも知れないと、初めて圭一郎は思い当たった。

 

 

「もしもし、軽井沢警察署ですか?…お忙しい所、申し訳ありません、僕、的場と申しますが一課の栗田刑事さんをお願いしたいのですが。…ええ。的場、です。はい、先日の」
 一一養護施設を出て暫く歩き、圭一郎は電話ボックスから栗田へと連絡を入れた。
 暫く保留音の峠の我が家を聴かされた後、栗田が電話に出た。
『はい。栗田です。圭一郎君?どうしたのかな』
「すみません、お忙しい所。…あの、実はお願いがあるんです。聞いて戴けますか?」
 そう切り出して、圭一郎は栗田に用件を伝えた。
 受け入れてくれるかどうか一抹の不安があったが、彼は快く承諾してくれた。
『いいよ。それくらいの事なら。じゃあ、明日、直接資料をホテルに届けるよ。こっちもちょっと話があるし』
「…ありがとうございます。じゃあ、ホテルで待ってますから」
『ああ。後で』
 見える訳は無いのに、受話器に向かって頭を下げ、圭一郎は電話を切った。
 バス停に向かい、時刻表を確かめて、ベンチに腰掛ける。
 駅前行きのバスが来るまで、後、十分以上あった。
 する事も無いので、ぼんやりと空や景色を眺める。
 良く晴れて、澄み渡った空は遠くの浅間山の向こうまで、濃く青く、雲一つ無い。
 東京の空の様に、希薄な蒼さではないのだ 高校の頃、授業をさぼって昼寝をした千曲川の川原を思い出させる様な空を見つめて、圭一郎は溜息を一つ、付いた。
 溜息を一つ付く度に、幸せが一つ逃げてゆく。
 幼い頃、母親に良く言われた台詞だ。
 川原の石の上で昼寝をしていたあの頃は、どんな出来事が身に降りかかれば溜息を付くのかなんて、想像も出来なかった。
 友人が時々洩らす、恋の溜息さえも、圭一郎には無縁だった。
 恋する事も、辛く悲しい日々も頭にはなくて、日々が唯、楽しかった。
 二人が死ぬまで。
 明彦に抱いた感情を持て余すまで。
 一一大きく肩を上下させて、圭一郎はもう一度溜息を付いた。
 帰らない日々を懐かしんでみたって、何も始まりはしないんだ。
 …そう、自分に言い聞かせてもう一度見上げた青い空は、東京の空の様に輝きを失って見えた。
 浅間山も、瞼の記憶も……もう、遠い過去なのだ。

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