続きの間に詰めていた彼等が寝所に傾れ込んだ時、確かにアレンの目は開いていたけれども、侍医達に囲まれた寝台に身を丸める風にして横たわった彼は、酷く苦し気な息をしていた。

「王妃殿下、こちらに、お早く。お気付きになられてより、陛下はローザ様をお呼びです」

「アレン! アレン、しっかりして、アレン……」

「…………ロー、ザ……。ロ……」

「アレン。ここよ。私はここにいるからっ」

促されたローザが彼の枕辺に縋り付くまでの間も、アレンは囈言のように彼女の名を呼び続け、眼差しも、震える腕も、何かを求めて宙を彷徨い始めて、ローザは、両手で彼の右手を握り締める。

「ロー……」

「アレン。アレンっ。判る? 私よ。アーサーも子供達も傍にいるのよ。お願い……っ。お願いだから、負けないで……っ」

「…………ロー、ザ。……み……」

「え?」

「手、かが、み……っ。手鏡、を…………っ」

「ここよ。手鏡もここにあるわ。ね? アレン、判る?」

微かに彼女の手を握り返したアレンは、絶え絶えの息で、手鏡、と繰り返し、ローザは、一度は自身の懐に仕舞った鏡を取り出し彼に握らせた。

「……未だ……、未だ、駄目……っ。未だ、死ねな……。……やり残した事、が……。だ、から……っ。アレク、様っ。アレ、フ様……っ。もう、少し……だけ……。もう少しだけ……時間を下さ……」

すればアレンは、何とか自らの力のみで手鏡を掴み直し、先祖達へと訴え始める。

「アレン……。大丈夫。大丈夫よ。ロト様や曾お祖父様が、こんなに早く貴方を連れて行く筈が無いわ。きっと、お二人が貴方を守って下さるわ。だから、大丈夫なの。平気なの……っ。……アレン。もっと生きたいと思って。生きるんだと誓って頂戴、お願い……っ」

切れ切れの、掠れた声ではあったが、確かに、未だ死ねないと、もう少しでいいから時間が欲しいと、アレンが呟いたのを聞き届けたローザは、声に力を込めて彼を励まし、

「…………あ、れ……? ローザ…………?」

「アレン?」

「僕、は……どうして……」

目覚めてからそれまでの呟きの一切、無意識でのことだったのか、ぼうっとしたままなれど、アレンは、僅かだけ瞳の色を変える。

「倒れてしまったの。判る? 思い出せて?」

「倒れ……? 御、免……。能く判らな……。……ローザ、アーサー……は……?」

「僕なら、ここにいますよ、アレン。気分はどうですか?」

「……アーサー……。確か、約束……した日……」

「アレン……。こんな時に、そんなこと……。──何も気にしなくていいんです。今だけは、全部のことを忘れて体を治さないと」

「…………う、ん……。でも……何が何だか…………。そう、だ……。アベルと、アデルとも、約束……」

「父上っ」

「父上!」

漸く、アレンが本当の意味で気付いたのを悟り、アーサーも子供達もその枕辺に詰めて、

「あ……、二人共……。……すまない……。約束の、稽古…………。又、今度でいい……か……?」

「父上……。何時でもいいんです、稽古なんて……っ」

「ええ。今度、必ず付けて頂ければ、今は……っ」

「ロレーヌのお菓子も……又、今度…………」

「……約束よ、お父様……っ」

「…………ああ、必ず……」

親友や家族の顔を一通り眺めてから、アレンは再び、瞼を閉ざしてしまった。

「アレン? アレンっ」

「ローザ様。──陛下は、お休みになられたご様子です。……皆様、どうぞ、続きの間の方へ」

やっと、はっきり意識を取り戻したのに、又も気を失ってしまった風になった彼にローザは蒼褪めたが、そうではない、と侍医長は彼女を宥め、アレンの枕辺を占めた彼等は、続きの間に戻る。

「……どうなのかしら…………。一度は気付いてくれたから、多少は……」

「いえ、暫くは、予断を許さぬままかと思われます。ですが、先程の陛下のご様子からして、御危篤と言う事態は免れたかと」

閉ざされてしまった寝所の扉をローザは不安そうに振り返り、彼女達に付いて来た先程の若い侍医は、安心は出来ぬけれど、一山は越えられたかも知れない、と告げた。

「そう……。そうね……。到底、安心などは出来ないわ。今夜は何とかなったにせよ……」

故に、ローザは考え込んだ風になって、暫く黙してから、伏せ加減にしていた面に君主としての色を浮かべた。

「宰相殿は何処に?」

「ここにおります、王妃殿下」

──宰相。ローレシア王妃として命じます。直ちに、国王陛下の御公務のご予定を破棄しなさい。全て白紙に戻すように。今日のことも、陛下のご容態のことも、他の者達には、明日、私から告げます。それから、アベル。本日より陛下が御公務に戻られるまで、貴方がローレシア国王の名代です。いいですね? 明日から、陛下の御公務の全てを、貴方が代理するのです。それと、アデル。貴方は今直ぐ、私とムーンブルクへ。少なくとも陛下のご容態が落ち着かれるまで、私は、ローレシア王妃としてあらなくてはなりませんから、貴方にも、ムーンブルク女王の名代を務めて貰います」

彼等親子と共に王の自室に詰め、片隅に控えていた宰相や、息子達にローザは毅然とした態度で命じ、

「アーサー。申し訳ないのだけれど、私とアデルがムーンブルクに行っている間、アレンの傍にいて貰えないかしら……。今夜中には必ず戻って来るから」

「ええ、勿論。最初からそのつもりでしたから」

「御免なさい。貴方だって、サマルトリア国王として忙しい身なのに……。有り難う」

「お母様、私は……?」

「ロレーヌ。貴方は、アーサーおじ様と、お父様のお傍に付いていて。お父様に付き添うのが貴方のお仕事よ」

「はい、お母様」

アーサーと娘に後を託すと、彼女は、次男を連れてムーンブルクへ発った。

数日が過ぎた。

アレンの容態は一進一退で、良くなったとも悪くなったとも言えなかった。

但、素人目にも、倒れた日から数えて一日、二日は酷く荒かった彼の息が整い始め、胸や胃の臓を押さえる仕草も見せなくなってきたのが判ったので、このまま、少しずつでも回復していってくれればと、ローザ達も、ほぼ毎日アレンの見舞いにやって来るアーサーも、そればかりを願うようになった。

息子達は、君主の名代と言う突然の重責を何とかこなし、時間を見付けては父を見舞って、ローザは娘と二人、彼の看病に励んだ。

そして十日も過ぎた頃には、アレンは、ローザやロレーヌの語り掛けにしっかりした受け答えをするようになり、僅かの間だけだったけれども、寝台の上でなら半身を起せるまでにもなったので、人々は、漸く胸を撫で下ろしたが。

──病床に伏してから半月後。

持ち直したかに思えたアレンの容態が急変し、又も、彼は危篤に陥った。