約十年振りに、アレンは、王都の通りを行き交う人々の中に溶け込んだ。

見る者が見れば一目で、平民が袖を通せる服では無いと見抜かれるだろうけれども、自身の衣装の中では最も簡素なそれを着込み、フードの付いたマントを羽織って顔を隠して、目立たぬように街中を行った彼は、あちこちを彷徨ってみた。

そうしてみても、嫌な噂は聞こえて来ず、王都の様にも変わりなく、気にし過ぎだったのかな……、と少しばかり安堵した彼の足先は、幼い頃の思い出が残る、都で一番の商店街へ向いた。

その頃には、既に夕暮れが迫りつつあったから、商店街は甚く混み合っており、酒場も兼ねている宿屋の燭台にも火が灯り始めていて、懐かしい……、とアレンは足を止める。

──未だ十にも満たなかったあの頃、彼は、あの宿に火が灯ったら、抜け出した城に戻ろうと決めていた。

とは言え、そこは子供のこと、自分で決めた自分だけの約束を破ってしまうことも能くあって、その度に、件の宿屋の主や女将や、武器屋や道具屋の主人達に、子供が遊んでいていい時間ではないから、と叱られ、八百屋だの肉屋だのの女将達やご隠居に急かされもして、慌てて、勝手に城を抜け出した彼に説教を喰らわそうと、父達や爺や達が手ぐすね引いて待ち構える王城へと駆け戻ったものだった。

相手は『王子様』だと知りつつも、一緒になって遊んでくれ、もう帰るのか、と番度名残りを惜しんでくれもした子供達に、又、必ず城を抜け出して来るから、と約束しつつ、手を振りながら別れた時間。

だから、アレンにとって、その時間のその商店街は、あの頃の、少しばかり寂しい想いが甦る場所でもあり、されど、どうしようもなく懐かしく。

夕刻から夜に掛けての顔は知らない、が、昔通りの街並みを、立ち止まったままアレンは眺め続ける。

あれから十年と少しの歳月が流れているから、皆、相応の年は重ねていたけれど、店先に立つ主や女将達の顔触れに変わりは無かった。

青果店のご隠居も、未だ未だ元気そうで。

但、共に遊んだ、あの頃は己同様子供だった彼等が、当然、己のように成長し、生家の店を手伝っている様が窺えるのが、唯一の変化で。

「……宿屋の小父さんと小母さんは…………」

流石に、店内に立ち入らなければ横顔も窺えない、今頃は酒場で精を出しているだろう宿の主夫婦の顔も盗み見たくなった彼は、自分はもう、大手を振って酒場に入れる歳なのだからと、通りすがりの客を装い、件の宿屋の扉を開け──ようとした。

「出てっとくれ! とっととお帰り!」

が、一息早く、バンっっ! と力任せに扉が開かれ、アレンの肩にぶつかって跳ね返ったそこから、宿の女将と主が、客らしき男の襟首を引き摺りながら出て来た。

「んっだと!? てめぇら、客を何だと思ってやがんだ!?」

「お黙り! あんたみたいな客なんか、こっちから願い下げだね!」

「ああ! 客じゃねえから酒代は要らねえぞ! 黙って聞いてりゃ言いたい放題、碌でもねえ噂ばっか言い立てやがって!」

途端、アレンの目の前で、男性客と主夫婦の言い争いが始まり、何だ何だと、あれよと言う間に人垣が出来てしまって、アレンは、そこより一歩も動けなくなる。

「何だと? この宿の酒場じゃ、噂話も許されねぇってのか!?」

「噂じゃねえだろうがっ。根も葉もないデタラメってんだよ! 俺の店で、アレン殿下達を悪し様に言うなんざ、絶対許さねえからな!」

「はあ? デタラメだあ? 魔力無しなローレシア王家の一員のくせして、ハーゴン討伐をしてみせた王太子なんざ化け物みたいなもんだってのも、サマルトリアのボンクラ王子にハーゴンが討てる訳ねぇってのも、没落ムーンブルクの王女はローレシアに身売りするんだってのも、本当のことだろうがっ!」

「嘘っぱちばっかり並べ立てるんじゃないよ、黙れと言ってるじゃないさ! 向こうの訛りがあるから判るんだよ。あんた、ラダトームの奴等だろう? この王都じゃね、あんた達の方が遥かに噂になってんだよっ。うちのアレン殿下やローレシアをやっかんで、ラダトームの連中が嘘ばかり言い触らして歩いてるってね! 判ったかい!? 判ったら、アレフ様とローラ様に頭下げてから、尻尾巻いて帰りな!」

宿の主夫婦と男が引き起こしている騒動は、今正に触れ散らかされている最中の、自分達への誹謗中傷が原因だ、と知り、アレンは思わず俯いたが、『宿の小父さんと小母さん』は、どうやらラダトームの回し者らしい男を言い負かし、商店街の者達で出来上がった人垣の中からも、ふざけるなとか、ローレシアから出て行けとか怒号が飛んで、ブツブツと口の中で捨て台詞を吐いた男は、腹いせに、ドンとアレンを突き飛ばしてから、人垣を掻き分け逃げ去って行った。

「ああ、もう! 腹が立つったらありゃしない!」

「ったく、ラダトームの連中と来たら……。……ああ、それはそうと、兄さん。すまなかったな、巻き添え喰らわしちまって。平気だったかい?」

「……あ。御免よ。もしかして、うちのお客さんだったかい? 扉まで当てちまって、本当、すまなかったね。良かったら飲んで行っておくれよ。お代は負けとくから」

男の姿が消えてからも、宿の主夫婦も商店街の者達も、路上に集ったまま文句を言い続け、ふと思い出したのか、『騒動に巻き込んでしまった通りすがり』に詫びを告げてきた。

「いや、あの……」

「何だい? ……ああ、さっきの騒ぎなら気にしないで寄ってってくれ。最近、一寸質の悪いのが出てるってだけのことだ。その内にはいなくなるだろうし、二度と来させねえ」

そうして、宿の主夫婦は、『通りすがりの彼』を酒場の中へと誘い始め、

「そうではなく。…………覚えてる……かな」

目深に被っていたマントのフードを、アレンは外す。

「…………え……? ……え、まさか……」

「……久し振り、小父さん、小母さん」

「アレン様……? アレン王子殿下……?」

露になった、今の今まで『騒動に巻き込んでしまった通りすがりの兄さん』だと思っていた彼の面をしみじみ見詰め、宿の主夫婦も、商店街の主や女将達も、一斉に動きを止めた。

「……うん。十年と少し振りに、城を抜け出して来た。覚えていてくれて嬉しいよ」

「…………そんな、勿体無い……」

「今になって、殿下にもう一度お目に掛れるなんて……。でも、どうして……?」

「先程の『あれ』が、僕の耳にも届いたから、気になってしまって。それで。……でも、杞憂だったらしい。…………庇ってくれて、有り難う。それも、嬉しかった」

彼を『彼』と知るや否や、その場の誰もが、王太子殿下への礼を取ろうとしたが、アレンはそれを留め、

「アレン様……」

「それに。ここも、皆も、懐かしかったから、足を運んだ。…………礼も言いたかったんだ」

「礼、ですか?」

「ああ。……城を抜け出してばかりいた子供の頃。ここで、皆に遊んで貰った。お遣いもさせて貰ったし、色々を教えて貰いもした。あの頃、この街の皆に、遣いの駄賃で貰った五〇ゴールドのお陰で、僕は、ハーゴン討伐の旅に出られた。あの五〇ゴールドは、旅の支えの一つだった。有り難く使わせて貰った。……だから。有り難う。感謝してる」

「殿下……。あんな物を、ずっと…………」

実は……、と彼が打ち明ければ、あれから、もう何年も経ったのに……、と人々は瞠目し、何時しか夜の帳が下りた商店街の闇の中で何やらを堪える。

「何よりも、久し振りに、皆の顔が見られて良かったよ。……それじゃ──

──……アレン様! アレン様も、もう成人されたんですから、宜しければ、うちの店で!」

「ええ! その、大した物はありませんけどっっ」

そこで、告げたかったことは全て告げたし、皆が達者なのも確かめられたから、とアレンは帰城しようとしたが、勢い──だったのだろう、恐らく──宿の主夫婦は彼を引き止め、彼等の迫力と成り行きに流されるまま酒場に足踏み入れた直後には、共に傾れ込んで来た懐かしい顔触れに取り囲まれてしまい、帰るに帰れなくなって。

城に戻ったら、父上にぶん殴られるだろうなあ……、と戦々恐々としつつも、その夜、アレンは、『子供の頃と同じ一時ひととき』を過ごすことが叶い、その日を境に、ローレシア王都から、口差がない噂を言い触らす者達の姿が徐々に消えた。