歪められた、今にも泣き出してしまいそうな面だけが映り込む小さな手鏡を胸許に押し付け、両手で抱き込んだアレンが、唯々、身の内で荒れ狂う何かを堪える風に奥歯を噛み締め出してから、長らくが過ぎた。

祠より微かな灯りが洩れてくるのみの闇の中、瞼をも閉ざして俯いてしまっていた彼が、ふと、強張らせていた肩の力を抜いた時、咄嗟に悟れたのは、随分と長い間、自分はこうしてしまっていたらしい、と言うことと、夜明けはもう少し先だろうと言うこと、それに、立ち上がる力も生まれそうにない程、辺りも自身の体も冷え込んでいる、と言うことだけだった。

極寒の大地の片隅で、樹氷に凭れつつ雪に埋もれていたからだろう、手足の指の先まで凍え切った体は碌に動いてくれず、軽い眩暈までアレンは覚えた。

だから、「いけない、風邪を引き始めてしまっているかも知れない」と慌てて立ち上がろうとしたのに、気が急くばかりで一向に思う通りに出来ず、

「凍死は嫌だな……。しかも、自分が馬鹿な所為で、なんて、目も当てられない……」

自嘲以下の冥い笑みを、彼は頬に浮かべる。

このまま凍え死ぬのは御免だ、とのそれは本音だったが、自棄になっているとしか言えない、死ねるものなら死んでしまいたい、との想いも、彼の中の何処かに薄らとはあり、故に、立ち上がれなかったら、その時はその時……、と彼は再び歪んだ笑みを拵えた。

────だが。

歪んだ冥い笑みが、重たく苦し気な溜息へと変わった時、祠の扉が静かに開き、中から出て来た者の影が、アレンの許にも届く薄い光を遮った。

「……アレン」

「…………アーサー……。ローザ……」

その所為で一層暗くなった辺りと、何者かが近付いて来る気配に、のろのろと顔を上げた彼の眼前に立ったのはアーサーとローザで、一度、小さくアレンの名を呼び掛けて以降、揃って黙り込んだ二人は、彼の手を片腕ずつ掴み強引に立たせて、沈黙を保ったまま、祠の地下へと引き摺り始める。

「あ、あの……」

されるに任せ、怒っているのかも呆れているのかも窺えない、一切の表情を消しているアーサーとローザの気配を、アレンは、恐る恐る上目遣いで探り、辿々しく話し掛けようともしたが、二人は、徹頭徹尾沈黙を貫き、辿り着いた湯殿の扉前で、彼が身に着けていた剣だの盾だの鎧兜だのを有無を言わせず剥ぎ取って──正確には叩き落として。何故ならば、ロトの武具を二人には持ち上げられぬから──、亜麻を幾重にも重ねて縫い上げる鎧下姿にしてやった彼を、開け放った扉の向こう──湛えられた湯の中へ、ドン! と突き飛ばすことで叩き込み、今度は、バン! と力任せに湯殿の扉を閉めた。

一言も発さぬまま。

どぼん……、と飛沫を上げて、頭から湯に転落したアレンを見遣りもせず。

そんな二人の様子から、アーサーにしてもローザにしても、烈火の如く怒り狂っているらしい、と想像したアレンは、後を追い掛けようとしたけれど。

頭の天辺から足の先までぐしょ濡れになってしまっていたし、こうされた以上、凍え切ってしまった体を温めてから上がらぬと、一層二人を怒らせるだけかも、と思い止まり、たっぷりと湯を含んで重くなった鎧下を何とか脱ぎ去り裸になって、落ち着かぬ気持ちを抱えながらも広い浴槽に身を揺蕩え、これ以上は逆上せる、と言う処まで暖まってから。

はた、と彼は、着る物が無いのに思い当たった。

……が、「どうしよう、このままじゃ出るに出られない……」と悩む彼を尻目に、再び、今度は一人でやって来たアーサーが、何処までも無言のまま脱衣所の片隅に寝間着等々を積み上げて言ったので、焦りつつ着替え終えた彼は、そろそろと、寝床のある客室へ向かう。

そうっとそうっと扉を開けて、そうっとそうっと中へ入ったら、相変わらず表情の一切を消しているアーサーとローザが眼前に仁王立ちしていて、やはり口を開いてくれない二人に引っ掴まれた彼は、暖炉前の石床を占拠している寝床の上に座らさせられた。

「…………その……。あの、な。ええと…………」

寝床の丁度真ん中辺りに、問答無用で腰下ろさせた彼の両傍らに立ちはだかった二人をこっそり盗み見、アレンは性懲りも無く、ごにょごにょと言い訳を告げる努力を始めたが、

「アレン。言い訳にも誤魔化しにも、貸す耳はありませんよ」

「……アレン。貴方、私達に言うことがあるわよね」

無表情から一転、ギン! と両目を吊り上げて、お怒りを顔全体に浮かべ、けれど漸く口を利いてくれたアーサーとローザは、揃って冷ややかに彼を見下ろす。

「……………………え、と……。……すまなかった……?」

「何で語尾が上がるんですかっ!!」

「そうじゃないでしょうっ! 『御免なさい』はっ!?」

「…………ご、御免なさい……」

二人の態度からして、この数日、彼等に隠れてしていた諸々を、とうとう悟られてしまったのだろう、との想像は付いたし、何はともあれ、ここは素直に謝った方がいい、とも思ったけれども、アーサーとローザが自分に求めているのは、本当に詫びの言葉なんだろうか、と悩みもしたアレンから洩れた『すまなかった』は、「これで間違っていないか?」との問い掛けも兼ねてしまっていたが為、アーサーとローザの眦は一層吊り上がり、故に彼は、情けなくもビクリと肩を震わせつつ小さく身も縮めて、言われるがまま、二人に詫びた。

「全くもう、アレンは…………」

「どうして、貴方は、何時も何時も、そうなの……」

と、彼等は溜息を零しながらぼそりと零しもして、アレンの左右に添う風に寝床の上にしゃがみ込むと、一様に面を伏せ、剰え、両手で顔を覆ってしまった。

「……あ、あの……な。その……、アーサー? ローザ……?」

面を覆う両手の下から微かに覗く彼等の頤も、項垂れた肩も、丸められた背も、僅かに震えているのが判り、アレンは、「僕は、アーサーとローザを泣かせてしまった……?」と先ず戸惑い、次いで焦り、最後に甚く強い罪悪感を覚えて、伸ばした両腕で、そっと二人の背を撫でる。

「…………御免。本当に、御免。すまなかった……。詫びろと言うなら幾らでも詫びるから、二人の気の済むようにするから、だから、泣き止んでくれ、頼む…………」

もしも、この数日間の『諸々』がバレたら、きっとアーサーとローザは怒るだろう、との想像は幾度となくしたが、まさか、揃って泣かれるとは思ってもおらず、二人の背を撫でて、髪も撫でて、何とか彼等を宥めようと足掻き始めたアレンは、その時、ようやっと、この真夜中、凍え死ぬと思えた程、外の深い雪の中に踞っていた己を捜しに来てくれた時から、二人が、上着すら羽織っていない夜着姿のままだったことにも、靴とて履いていなかったらしいことにも気付き、己も又、泣きたい心地を覚え、俯いた。

「……アレン、反省しました?」

「少しは、思い知ったかしら?」

すれば、顔を伏せ、背を丸め、としていたアーサーとローザがゆるゆると身を起こし、面を覆っていた手指の隙間から、チロ……、と瞳を覗かせた。

「アーサー? ローザ?」

「御免なさい。今の、嘘泣きなんです」

「アレンに色々を思い知らせるには、頬を叩いたりするよりも、泣いてみせた方が効くかと思ったの」

そうして二人は、パッと両手を外し、にこぉ……、と笑んで、

「え、泣き真似…………?」

「そうよ。アーサーと示し合わせたのよ。でなければ、きっと、貴方には解らないから」

「驚かせてすみません。でも、悪いのはアレンですからね。────兎に角。何がどうしてどうなって、とか、そういう話は、明日にしましょう。もう、こんな夜更けですし、暖かくして休まないと風邪を引いてしまいます」

「あ、そうね。休みましょう。話は夜が明けてからでも出来るものね」

騙された……? と目を瞠ったアレンを力尽くで寝床に横たわらせたアーサーとローザは、さっさと部屋の灯りを落とし、さっさと何枚も重ねた毛布を掛けて、アレンの両脇に引っ付き、がっしり抱き込む風にして寄り添ってきた。