昨夜の騒動以降、ローレシア王城内は動きを止めておらず、夜が明けて二刻以上が経った今では、夜半時よりも、城内の廊下や回廊を行き交う人々の数は格段に増えていた。

それに加え、ローザが酷く取り乱してしまっている所為で、彼女の客間前の廊下には、複数の女官達ばかりか、いざと言う時には王子殿下だろうと張り倒し兼ねない女官長の姿もあり、このままでは、己が想像よりも遥かに騒ぎの規模が大きくなる、と客間前に駆け付けたアレンは思い知った。

「婆や。ローザは?」

「それが、未だに…………。このままでは、お体に障ってしまいますでしょうから、何とかお慰めしようと致したのですが──

──判った。……頼む、見逃せ」

宰相が、アレンにとっては『爺や』でもあるように、乳母を務めてくれたこともある女官長は、彼の中では未だに『婆や』でもあるので、真っ先に女官長の傍らへ寄ったアレンは、痛ましそうに眉を顰めた彼女の言葉が終わらぬ内に、中へ続く扉へと身を翻す。

「なりません。それに。殿下もアーサー様も、そのようなお姿のまま、城内を駆け回られるなどと──

──だから! 婆や、説教でも何でも、後で幾らでも聞くからっ。今はそれ処じゃないんだ、僕達には、一応でもローザの事情が判っているからっっ。止めるなっ!」

そんな無礼は許されないと、女官長はアレンの腕を掴んで引き止めたが、彼女の手を力尽くで振り払った彼は、客間の扉を音立てて開けた。

「アレン様っっ!」

室内に駆け込んで行った彼の背を、婆やの声が追ったけれども、立ち止まりも振り返りもせず、アレンは、奥の寝所の扉も開け放つ。

「アレン様!?」

「ローザ! ローザ!!」

寝所に飛び込むと同時に、大きな天蓋付きの寝台の隅で小さく丸まり、自分で自分の肩を抱きながら叫びを上げ続けているローザと、触れようとする度に嫌だと暴れる彼女を、それでも療治しようと挑む侍医と、侍医と共にローザを落ち着かせようとしていた三人程の女官の姿がアレンの目に映り、どうして、と驚いた風になりつつも留めようとしてきた侍医や女官達を無理矢理押し退けた彼は、取り乱す彼女の傍らに添った。

「ローザ? ローザ。しっかりするんだ、ローザ」

アーサーの話を聞いた時から、実の処はローザのことしか考えられなくなっていて、後先も見失っていたアレンは、出来る限り抑えた静かな声で彼女へ呼び掛け、そっと、その肩に手を掛けた。

「………………アレン……?」

薄い絹地の夜着越し、彼の指先が触れた途端、ローザは、嫌だと手を振り上げようとして……、が、アレンの声が届いたのか、持ち上げ掛けた腕を力無く敷布へ落とし、のろのろと、この上無く泣き濡れた面を持ち上げながら、紅色の瞳を彷徨わせる。

「ああ。僕が判るか?」

「アレン…………」

「ローザ。傍にいる。僕も、アーサーも、傍にいるから。もう、大丈夫だ」

「……アレン…………。…………アレン。アレンっっ!」

身を屈め、視線の高さを合わせて彷徨う瞳を捉え、細い両肩を支えつつ、優しく、唯々優しくアレンが語り掛ければ、ローザは、彼の胸に縋って来た。

「すまない。君を一人にしてしまった。あのまま、傍にいれば…………」

────己が胸を頼り、己が名だけを呼んで、泣き続けるその刹那のローザは、同じくその刹那のアレンには、一人のか弱い少女としか映らなかった。

ムーンブルク王国唯一の王位継承者である王女殿下でもなく、魔物と対峙しても怯むことなく術を操ってみせる高位の魔術師でもなく。

泣き濡れることしか出来ない、ローザ、と言う名だけを持つ少女。

忘れようとしても忘れられず、そっと蓋をして何処かに流してしまおうとしても手放せない、秘かな想いを寄せている少女。

……だから、アレンは、直ぐそこに侍医や女官達が控えているのを忘れ、己の後を追って来た婆や達が寝所の入り口を踏み越えたのも気付かず、強く、ローザを抱き締めた。

彼女を悲しませ、苦しめている全てのことから、守り、庇わんとする風に。

すれば、縮こめられていた彼女の白い両腕も、少年期を抜け始めた彼の背へ回され、今この時だけでも、ローザが己の庇護を求めてくれるならと、彼女を掻き抱く彼の腕には、一層の力が籠った。

──日々、笑顔を浮かべ、明るく気丈に振る舞っていても、彼女の胸の片隅では、故郷だった王都を、我が家だった王城を、あのような無惨な姿に変えられて、愛していた父母達を奪われてしまったあの夜の光景が、何時も何時も、繰り返し、甦り続けていたのかも知れない。

辛いことなど一つもない、と笑いながら過ごしていた旅の日々とて、本当は辛くて、触れたくもない思い出に晒され続けるだけの日々だったのかも知れない。

なのに、僕は、ローザを一人きりにしてしまった。あんなことが遭った後だったのに。

ならば、せめて、今だけでも。

こうしていれば、ローザを守れるなら。泣き止んでくれるなら。

…………そう思い、アレンは、何も彼も──自身と彼女が『何者』かも忘れたまま、彼女だけに想いを傾け、ひたすらに抱き締め続け。

「…………夢を、見たの……」

「夢……?」

「あの夜の夢……。本当は、そうではなかったけれど……夢の中で、お父様も、お母様も、爺やも婆やも、皆々、私の目の前で、夕べのあの魔物が振るった雷の杖に打たれて、焼かれて……。……でも、私は何も出来ないの……。気が付いたら、あの小さな仔犬の姿にされていて……っ。だから、泣き叫ぶしかなくて、なのに、あいつらが……っっ。……夢だ、って。これは夢なんだって判っていたのに、目が覚めなくて、どうしたらいいのか判らなくて、捜しても捜しても、アレンもアーサーも、何処にもいないの…………。だから……、だから…………っっ」

「…………御免……。──でも、もう、そんな嫌な夢は終わったんだ、ローザ。……大丈夫。大丈夫だから。これは夢じゃない。今、君の傍らにいる僕達は、夢なんかじゃない。ずっと傍にいる。もう、君を一人にはしない」

やがて、落ち着きを取り戻したのか、涙も留め、ポツポツと、嫌な夢を見たのだ……、と小さな声で訴えてきたローザを、言い聞かせる風にあやしながら、アレンは、一度ひとたび横抱きにした彼女を寝台に寝かし付けた。

「……嫌。ここで、こうしているのは嫌。又、夢を見たら…………」

「眠らなくてもいい。体を休めるだけでいいんだ。もう、怖いことなど何も無いから。……な? 何か、暖かい物でも淹れて貰って、ゆっくり休もう。何がいい? 甘い方がいいか?」

「…………なら……、あの……我が儘を、言ってもいいかしら……」

「ああ。どんなことでも」

「チョコレートを……貰えたら、って……。飲みたい……」

「うん。マシュマロは一つ? 二つ?」

「……二つ」

「判った。マシュマロ抜きでいいなら、僕も付き合う」

丁重に横たえた身に、そっと、喉元まで毛布を掛けてやって、菫色の長い髪を撫でつつ語り掛ける彼へ、珍しくローザは我が儘を言い、頷きながら立ち上がったアレンは、待っていて、と彼女へ微笑んでから振り返った。

────振り返った先には、わざとらしい素知らぬ顔して、ローザに水薬を処方しようと黙々と手を動かし続けている侍医や、マシュマロ入りのホット・チョコレートを彼女へ供する支度を整えに向かい始めた女官達や、アレン以外の者には悟られぬように気遣いつつも、鬼のような形相を彼へと向けている婆やの姿があり。

漸く、我を取り戻し、自身とローザの『立場』や身分も思い出した彼は、ヒクリと顔を引き攣らせ、視線だけを動かしアーサーを探したが。

アーサーは、一間挟んだ廊下の、それも扉の影から、そろっと頭を覗かせ、小さな身振りのみで応援を送るしかしてくれなかった。