─ Beranoor〜World Tree ─

全ての支度を整え終えて、急遽ベラヌールの街を発ったアレンとローザは、少しでも時を稼ぐべく、ローザのトヘロスの術で以て可能な限り魔物を避けながら港へ向かった。

船に戻って来た二人を迎えた船員達は、アーサーの姿が見えぬのに怪訝そうになったが、彼等から事情を告げられて直ぐさま、出航の支度に取り掛かってくれた。

────世界中の海を知る船長も水夫達も、世界樹が葉を生い茂らせている島の所在は知らなかったが、「ロンダルキア大陸の東端からザハンに掛けての海域にある島の一つに、天を突く程の大樹が生えている」と言う噂を聞いたことがある水夫が一人いて、彼が話してくれた噂を頼りに、アレン達は、賭けでしかない航海へ出た。

陥落させられたムーンブルク王都目指し、アレンが祖国を飛び出したあの夜から数えて、約一年近い刻が過ぎている。

即ち、今、季節は秋の半ば。

寒さが深まりつつあるこの季節、アレンとローザを乗せた外洋船が渡っている南海も、荒れ気味だった。

一杯に帆を張って、真っ直ぐ東目指して進むのみ、と言う訳にはいかない日も少なくなく。

ベラヌールを発ってより、三日が経ち、四日が経ち……、とする内に、アレンの中にもローザの中にも、不安と少しの苛立ちが募り始めた。

だが、不安な気持ちは兎も角、焦燥は、ハーゴンや思うように進ませてくれぬ海や、様々な事柄への八つ当たりでしかないと、彼等自身にも判っていたので、二人は逸る気持ちを抑え込み……、が、代わりに、誰の目にも明らかな程、落ち着きを失い始めていた。

焦った処で仕方無い、どうしようもない。アーサーが自分達を信じて耐えていてくれるだろうように、自分達も耐えるしかない。そうして、何としてでも世界樹の島を見付けて、神木の葉を……、と幾度となく自分で自分に言い聞かせても、二人、そうやって語り合っても、もやもやとする何かは、どうしても胸の中から去ってくれず。

…………出航から、六日程が経った日の夜。

夜半。

秋の盛りから晩秋に掛けての、昨今は只でさえ荒れがちな海を、何日も続けての夜間航海は出来ぬからと船長が判断した為、ロンダルキア大陸南部の海岸線を臨める海上に係留され進みを止めた船の甲板に、一人、アレンは上がった。

……一昨日辺りから、彼は上手く寝付けなくなっていて、その日も、眠りから見放された。

アーサーがハーゴンの呪いに倒れた日以来、自然、アレンとローザは寝床も寝室も別にしていたので、実際は彼にも判らなかったが、ローザも、眠れぬ彼と似たり寄ったりの様子であるらしく、けれど、時には一人で泣いていることもある感が窺える彼女の部屋を、真夜中の今に訪ねて、上手く慰める自信をアレンは持てなかった。

本当に、ローザが一人きりで泣き濡れる刹那を耐えているなら、励ましてやりたいと思ったし、愚にもつかない話題しか思い付けなかったとしても、彼女と二人語らって、彼女の面を見遣って、落ち着きを取り戻したい、とも思ったけれど。

どうしても、言ってみればローザと『向かい合う勇気』が持てなく。

船の中央辺りの手摺りに凭れて、彼は彼方を眺めた。

日、一日と寒さが厳しくなって、風も冷たく冴え始めるこの季節の夜空に輝く月や星は、揺れる波も、辺りの景色も青白く縁取っていて、「ああ、遠くまで能く見えるな……」と、ぼんやり視線を漂わせれば、夜の闇よりも濃い黒色したシルエットの、波間に浮かんでいるかのように見えるロンダルキア大陸の海岸の一箇所で、小さく、何かが瞬いているのが判った。

「ん……?」

瞬く光は街の灯りとしか思えず、彷徨わせていた視線をアレンは留めたが、街の灯りにしては数が少な過ぎるし、何より、あんな所に街があるなんて噂でも聞いたことがない、と彼は首を傾げる。

「アレン」

と、人工の物やも知れぬ、その小さな灯りから目を離し難く思って瞬きを見詰め続けていた彼の傍らに、ローザがやって来た。

「……ローザ」

「そんな薄着で、何時までも夜の潮風に当たっていたら、風邪を引いてしまうわ。──はい、これ」

「御免……。……これは、紅茶?」

「ええ。貴方は余り好かないけれど、お砂糖、多目に入れたの。甘いから覚悟してね」

やはり寝付けなかったのだろう、アレンが部屋を抜け出し甲板へと上がった気配を察していたらしいローザは、暖かく、そして甘い紅茶で満たされたカップを二つ手にしていて、上衣も毛布も羽織っていない、薄手の夜着姿だった彼の格好を叱りながら、カップを手渡す。

「ローザが淹れてくれるお茶は美味しいから、少しくらい甘くても平気だ。……有り難う」

「どう致しまして」

「それはそうと、ローザ。君こそ、そんな薄い木綿の服一枚でいて、寒くないのか? 部屋に戻った方がいい。そろそろ、僕も戻るから」

「………………ね、アレン。貴方、さっきから何を見ているの?」

受け取って直ぐさま口を付けた紅茶は、くすくすと笑いながらのローザの『警告』通り、彼の好みを遥かに越えた甘さだったが、何時も通り彼女手ずからの茶の美味さは損なわれておらず、ゆっくり、指先と体を温めたアレンは、君こそ風邪を引く、と彼女を部屋に戻そうとしたけれども、すっ……と彼より視線を逸らせたローザは、話を変えてしまった。

「……見えるかな。…………ほら、あそこに、何故か灯りが瞬いているんだ。街の灯りかも知れないと思ったんだが、あんな所に街があるなんて、聞いたことがないな、と思って」

「あら、本当ね。でも……街にしては、灯りの数が少な過ぎるわ」

「僕もそう思う。それに、あれが街なら、船長達が知っている筈だけど、そんな話、彼等からも聞いたことはないから、とても小さい漁師村なのかも」

だから。

たった今彼女に告げた、「そろそろ、僕も戻るから」とのそれが嘘でしかない──即ち、例え寒さに晒されても、寝台に潜った処で寝付けない部屋に戻って一人悶々としたりせず、今は唯、こうして甲板で風に吹かれていたい、と己が思っているように、ローザも、今は一人で部屋に籠っていたくないのかも知れない、と感じて、アレンは彼女の話に付き合い、ローザは何処となく安堵した風に言葉を重ね…………、けれど。

「……アレン」

「ん?」

「眠れないの…………」

半ば程が減った紅茶のカップを口に運ぶのを止めたローザは、一瞬の沈黙の後、深く俯いて、とうとう、ぽつりと本音を洩らした。

「ローザ」

「御免なさい……。……弱音なんて吐きたくないの。本当よ。アーサーは絶対に助かる、アレンと私で助けてみせるって、そうも思っているのだけれど。やっぱり、不安で仕方無いの……。…………大丈夫よね。アーサーは、大丈夫よね…………」

「……ああ。アーサーなら大丈夫。彼が、どうにかなったりする筈無い。僕達は、彼を救える」

「…………そうよね……」

「……………………でも。僕も良く眠れない。不安で仕方無い。……ローザと一緒」

又、泣き出してしまいたそうな顔をしてローザが打ち明けたから、僕だって……、とアレンも本音を語れば、

「だと思った。私も人のことは言えないけれど、貴方も、昨日くらいから、一寸酷い顔色しているもの」

漸く、互い抱える不安をぶつけ合えたからか、一転、彼女は微笑み。

「それにしても、ここは寒いわね」

ほう……っと、深い息を吐いたローザは、ふるりと肩を震わせた。

────寒さに揺れた彼女の肩は、小さく、そして細く。

眠り易いように少々だけ襟ぐりの開いた意匠の服から覗く、只でさえ白い彼女の肌は、甲板の所々に置かれたカンテラの火や月明かりに照らされ一層白く輝いて見えて、流した横目で彼女を見遣ったアレンは、竦められた彼女の肩へと、我知らず、腕を伸ばした。