─ Gate of the Lora〜Moonpeta ─

ローラの門を越え、海峡の海底を貫く天然の隧道を抜け、ムーンブルク大陸に足踏み入れた途端、アレンとアーサーの旅の足は、再び遅れた。

話には聞いていたので心構えだけはしていたが、ムーンブルク大陸を闊歩する魔物達は、ローレシア大陸のそれよりも、遥かに手強かった。

愛嬌溢れる顔したスライムが懐かしく思い出されるくらい、蜻蛉やムカデや大猿に似た姿をした魔物達に、二人揃って幾度も手酷い目に遭わされたのに、ムーンブルク側の国境の関から、ムーンブルク王国北部では最大の都市、ムーンペタまで続く街道沿いの町や村の数は余りにも少なく、ゆっくりと体を休められた夜は数える程だった。

……王都が大陸中央部に位置しているからだろう、ムーンブルク国内で最も栄えている地域も中央部で、ムーンペタのある北部、それに東部は、所謂辺境に当たる。

それは二人も承知していた。

リリザで手に入れた地図と照らし合わせての旅程も組んだ。

が、懸念していた通り、平和な時代に作られた地図は街道を確認する以外の役に立たず、どれだけ探しても、地図には存在している集落を見付けられないことなどざらで、平和だった頃でさえ、国家単位の測量は一大事業の一つに数えられていたのだ、この時勢では正確な地図など期待出来よう筈も無かった……、と二人は肩を落とすしかなかった。

それに。

或る意味では想定内であり、或る意味では想定外の負担が、アレンには掛かっていた。

今まで以上に、睡眠に当てられる時間が削られるようになってしまったのだ。

眠りに落ちたままでいたい夜半でも、魔物や獣の襲撃に備えて常に気を張っていなくてはならない一人きりの野宿より、二人でするそれの方が、火の番を兼ねた見張り等も交代で当たれる分楽になるし、睡眠時間も確保出来る、と最初はアレンも思っていたのだが、実際は、そうならなかった。

と或る夜、アレンが見張り番をしていた時、『あの夜』のように、邪神教団信徒達が姿現した為に。

余程疲れていたのだろう、彼等の野営場所の直ぐ近くまで教団信者達が薮を踏み越えつつ近付いて来てもアーサーは目覚めず、そのことに安堵しながら、襲い来た彼等と一人戦い、倒し。己がしたような想いをアーサーにはさせたくない、人殺しになるのは自分だけで充分だ、と改めて思わされてしまった彼は、深夜帯の見張りを一手に引き受け始めた。

教団信徒達が、彼等の神に祈りを捧げ──ているのだろう、恐らく──るのは真夜中と定められているのか、宵の口や朝方にその姿を見掛けることは先ずなかったので、夕食を摂った直後と、日の出が近付いて来る頃の見張りだけを頼み、それ以外は全て自身で受け持つと言い出したアレンへ、アーサーは、

「前線で戦っているのは君なのに、毎夜そんなことばかりしていたら、体を壊し兼ねないです」

と食い下がったが、アレンは、らしい言い訳を捻り出して彼を黙らせ、我を通してしまったのだけれども。

アーサーの弁ではないが、常に先陣を切るアレンが負担を抱えた分、足の速さだけでなく、戦いの効率その他も落ち、結果、回復役であるアーサーの負担も増え。少々歯車の狂ってしまった旅を二十日以上も続けた二人は、這々の体でムーンペタに到着した。

「やっと着いた……」

「ええ、やっと……」

「疲れた…………」

「僕もです……」

「食事して、風呂に浸かって、眠りたい……」

「ええ、ええ。僕もですよ…………」

ローラの門を越えてからこっち、本当にしんどかった……、と足引き摺りつつムーンペタの門を潜った二人からは、吐くつもりはなかった愚痴ばかりが自然と零れ、

「……宿、行こう」

「そりゃーもう、直ぐにでも」

門柱脇に立っていた自警団の兵に教えて貰った宿屋の方角へ二人揃って向き直るも、目抜き通りを行き始めて直ぐ、彼等の足は止まる。

「ん? あれ?」

「犬?」

アレンとアーサーを立ち止まらせたのは、街の入り口辺りから後を付いて来ていた様子の、一匹の、恐らくは白らしい毛色をした仔犬だった。

急に、疲れ故ではない歩き辛さを感じ、何やら纏わり付くものが……、とアレンが足許を見下ろせば、キュンキュンと、か細い声で鳴く仔犬が、懸命に彼の靴に戯れていた。

「どうした?」

「お腹空いちゃってる?」

主を持たぬ野良犬なのだろう、元色の判別が付け難いまでに薄汚れてしまってる仔犬を見て、通りの脇に寄ったアレンとアーサーは、その場に屈み、代わる代わる頭を撫でながら仔犬へと話し掛ける。

「あ、そうか。お腹空いてるのか。でも……お前にあげられるような物がないな……」

「……そうですね。携帯食は尽きちゃってますし、水筒も空だし。……それに。ね、アレン。君も判っているでしょう?」

「…………ああ。今の僕や君が、この仔を飼ってやれる筈も無い」

「ええ。この先の面倒が見られる訳でもないのに、一度きりの情けだけ掛けて放り出すのは、無責任です」

優しく撫でてはくれたけれど、悲しそうな顔になって低く言った二人を見比べ項垂れた仔犬は、何を思ってか、両の前脚をアレンの膝に掛けた。

「抱っこしろって? いいけど、お前が汚れるぞ?」

「…………ふうん。アレン、犬が好きなんですね。それとも、動物好き?」

「ああ。犬も猫も鳥も兎も。その……可愛いから」

「へぇ。アレンの口から、可愛いなんて言葉が聞けたのは、一寸意外。でも、気持ちは判ります。僕も好きなんですよー、小動物。それこそ、可愛いですから」

「アーサーには、可愛いって言葉が似合い過ぎる」

「……あ、心外です。僕も男ですーっ。────……それじゃあね。ワンちゃん」

「元気で」

躊躇ったものの、懐いてくる仔犬に我慢ならず、小さな体を抱き上げ頬寄せてしまったアレンを、少々の驚きを持って見詰めながらアーサーはひやかし、彼等は、そっと通りの石畳に下ろした仔犬と別れた。

そうされても仔犬は後を付いて来たが、どうしたって飼える筈も無し、初めて訪れた異国の街で、野良犬の貰い手を探せる当てもなし、と二人は後ろ髪引かれつつも仔犬を振り切り、宿屋に飛び込んだのだが。

胃袋を見たし、清潔にもなって、久し振りにぐっすりと眠れた夜が過ぎ、心地好く目覚めた翌朝。

宿の裏庭を拝借し日課の素振りをしようと、そこへ向かったアレンは、再び、昨日の仔犬に戯れ付かれた。

どうやら、一晩中宿近くを彷徨きつつ待ち伏せていた様子の、つぶらな、とても綺麗な赤い色した瞳で見上げてくる仔犬へ向け、彼は苦笑を落とし、待っているよう言い置いて、きっちり日課を終えてから、井戸の端に腰掛け仔犬を抱き上げる。

「飼ってあげられなくて御免な。遊山の旅の途中だったら、お前を拾えたけれど。今は無理なんだ」

抱き上げるや否や、膝の上で丸まった仔犬の背を撫で、昨日と同じく、アレンは諭すように言い聞かせた。

すれば又、キュン……、と仔犬は小さく鳴いて。

「そんな風に、悲しそうに鳴かないでくれ、頼むから。…………そうだ。せめてもの代わりに、洗ってやろう。綺麗に洗って、毛並に櫛の一つも入れれば、きっと、誰かがお前を飼ってくれる。こんなに可愛いのだから。それで許してくれ。……な?」

うん、と己の思い付きに満足の頷きを一つして、早速、彼は服の袖を捲り上げた。